「中央銀行による債務買い入れ -独立性と拒否する力 -」 by アダム・ポーゼン

中央銀行の独立性ネタを訳せ、とゴーストがささやいたので… つか、たんに気まぐれなだけ(笑)

イギリスの中央銀行、イングランド銀行の金融政策委員会で働く、アダム・ポーゼンさんのスピーチを冒頭と末尾だけ翻訳。まんなかの面白いところを抜かしてしまっています。10頁しかないので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

“やらない”日本銀行とはちがって、イングランド銀行は”やったから”メディアなどにたたかれているんだということに注意。抜かした部分を乱暴に要約すると、「見てくれじゃなく、中央銀行が実際にやったことが大事なのだ。」(やったことで評価しろボケ)でしょうか、たぶん(笑)

リンク先(イングランド銀行)で入手できる原文のPDFファイルには、参考文献がたくさん載っています。バーナンキさんやロゴフさんの論文ももちろんあがっています。

原文PDFはこちらから→ 「When Central Banks buy Bonds – Independence and the Power to say No」

今回も四ッ谷の「だあしゑんか」さんにお世話になりました。お酒でなく珈琲もおいしいです。

[2010年8月22日 10:14] 私用のためいそぎで上げます。あとで参考文献などを足したいと思います。


2007 年にはじまった金融危機以降、あまたの記事が中央銀行の独立性を扱ってきた。近ごろでは、「中央銀行の昨今の大規模な政府債の買い入れは、彼らがそもそも選挙で選ばれた議員たちから独立しているのを示している。」 とほのめかすコメンテータもいるようだし、「中央銀行が民間の有価証券を買い入れれば、そのバランスシートを危険にさらすことになる。するとたぶん資産配分が政治問題になって、中央銀行の独立性はリスクにさらされることになる。」 と言い切る人もいそうなくらいだ。ギリシアで金融危機がおきた時、EU の施策の一部として、ヨーロッパ中央銀行による緊急措置がおこなわれた。これが中央銀行への非難を蒸し返し、ヨーロッパは不安に陥ってしまった。残念なほど多くの人が中央銀行の独立性の土台は評判の問題だと思っているようである。一見すると、中央銀行の姿勢は債務を抱えた人に甘かったり、彼らの便宜を図っているようにみえる。彼らによれば、それが中央銀行の独立性の土台である評判をあやうくしているという。仮に中央銀行の評判に傷がつけば、当然、彼らがインフレをコントロールする能力の信頼性もかなりあやしいぞというわけだ。

私はこのような人々に組みしない。… (大幅に中略…)

“体裁をつくろう” 必要はない、ニュースは見るものだ。

債務買取りの声があがっても、経済学的に正しくなければ、それを拒否する能力。中央銀行の独立性とはそういうものである。それ以上でもそれ以下でもない。中央銀行は経済的に最善の成果を社会にもたらすことで、そのように拒否する力をたもつのであって、うわべの独立性に対する評判を気にすることで中央銀行の能力がたもたれるわけではない。事実はこうだ。独立性をもった中央銀行による債務買取りがどうみえようと、きょうびの市場やメディアにいかにその姿勢を大げさに言われようと、中央銀行が経済学的に正しいことをするかぎり、その信頼性が毀損するようなことはない。私にはそう自信をもって言える。今かりに、中央銀行のツールである名目金利がすでに事実上ゼロに近く、金融的な波及メカニズムが効かないような状況だとしよう。このような状況でデフレ圧力に抗して物価を安定させようとするなら、中央銀行による債権買取りという施策がたったひとつの手段であり、量的緩和や信用緩和といった政策をとるのが正しい。中央銀行がその独立性の “見てくれ” にこだわりすぎるなら、彼らは二重に過ちを犯すことになる。望ましい結果をもたらすのは “見てくれや体裁” ではない。だからそれは何のためにもならない。それに “うわべ” へのこだわりは正しい政策をすすめる障害にもなる。

冒頭でふれたとおり、中央銀行が様々な方法で債権を買取った時になされる、中央銀行の独立性についての抗議の多くはひどく底が浅い。中央銀行の施策やその価値ではなく、自分の見た目や自称常識人たちの評判にかかずらわうとは未熟にもほどがある。それは高校生であっても、われわれイングランド銀行の金融政策委員会でも同じだ。評判を気にしたからといって、昨今ひろまっているような各国の中央銀行に対する偏見や卑劣な中傷はやまない。私がイメージしているのは、金融市場のマッチョを気どった人たちや彼らのことをレポートする人、はたまたヨーロッパ中央銀行が “政治的な純潔さ” や清廉さをなくしたと先月話していた多くの人々、そういう人たちである。

ヨタ話を無視したり却下したい気持ちはわかるが、彼らによる中央銀行の性格づけは文字どおり教養に欠けている。それが馬脚をあらわすのにまかせておこう。乙女チックな純潔さや型にはまった処女性に対する一般のこだわりは、時代遅れの迷信深い文化になりがちだ。それに自立や責任ある道を選ぶ妨げにもなる。社会にとって、また言うまでもなく若者たち自身にとって大事なのは彼女の “貞節さ” ではないし、そういうたぐいの評判でもない。社会にとって、そしてその娘たちにとって大事なのは、たとえ彼女がふしだらであろうと、危ない橋を渡ろうと、はたまた不用意に妊娠してしまおうと、つまるところ、その女の子が責任ある行動をとるかどうかである。

若い娘ではなく、スレッド・ニードル街の老婦人 (訳注: “Old Lady of Threadneedle Street” はイングランド銀行の通称) でもそれは同じこと。われわれイングランド銀行の独立性にとって問題なのは、ノーと言える力であり、その本気度である。そしてもしイエスと答えたならそれに責任を持つことが大事なのだ。事実、各国の責任ある中央銀行はみずから債券買取りを実施しようとすることがある。イングランド銀行の一連の量的緩和政策は、金融政策委員会の発案でおこなわれた。それが、物価の安定というわれわれに与えられた権限と矛盾しなかったからである。イエスと言うだけではなく、正しい債券買取りを適切なタイミングではじめることも、成熟し責任ある政策決定者であることの条件だ。今日、主だった国々の独立性をもつ中央銀行において意志決定をしている人たちが、自分たちの見かけにこだわるほど未熟でないのを私は喜ばしいと思っている。