「今日の危機 ― 金融・貨幣制度の抜本的改革のために」by MAURICE ALLAIS

Maurice Allais “La crise mondiale d’aujourd’hui -Pour de profondes réformes des institutions financières et monétaires“(1998)

全三部構成のうちの第一部。第二部(アジア通貨危機について)と第三部(改革案)については別途。冒頭の引用は書籍版から。
アレについては、ここここを参照。


1.1929年から1934年にかけての大恐慌と、その重要な教訓

 

それが起きたのは、私が思うに大部分は「最上の人々」が自らの時間の必要性について何ら明確な認識を持っておらず、したがって社会を救うための最善の方法についても持っていなかったからである。

ガエターノ・モスカ「支配する階級」(1939)

景気サイクルの繰り返しを避けたいと望むのであれば、ブームを誘発し不可避的に景気後退をもたらす信用の拡大を避けなければならない。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
「全能の政府(Le gouvernement omnipotent)」(1944)

1929年の危機は、アメリカにおける不合理な証券取引信用の拡大と、それによる常軌を逸した株価の上昇の結果である。現在の世界危機に関して、多くの点において1929年から1934年にかけての大恐慌以上に教訓となるものはない。過去にヴィルフレド・パレートが述べたとおりである。「歴史は全く同じように繰り返すことは絶対にないということ同様に、我々が要点と呼ぶ特定の部分を歴史が繰り返すということもまた確かである…過去と現在の事実は互いに支え合っている…相互理解のために。」

株価の上昇と崩壊

アメリカにおいて、1925年1月2日には121だったダウ・ジョーンズ工業株価指数は、1929年9月3日には381に達し、4年と8カ月で215%の上昇となった。それが10月30日には230にまで下落し、2か月で40%の下落となったが、特定の銘柄はそれ以上に下落した。

ダウ・ジョーンズ指数がようやく底値である41.2をついたのは1932年7月8日であり、3年間で89%の下落であった。それが1925年1月2日の水準を回復したのは1935年6月24日であり、1929年9月3日の水準は1954年11月16日を待たなければならなかった。

1929年から1932年にかけての株価の下落とその余波は、おそらくはそれまでに世界が経験した投機的株価上昇の中でも最も劇的なものの一つだろう。

株価が上昇しているうちは、株を買っている者たち、その多くが信用買いであったが、彼らはその予想が翌日の上昇基調によって裏付けられるのを目の当たりにした。そして上昇は日々続き、前日の予想を裏付けるのであった。

そうした上昇は、株価が明らかに著しく過大評価されていると一部の取引参加者が考えるようになるまで続き、その後それら取引参加者は株式の売却を始めるとともに、株価下落に乗じた投機さえ行った。株価は上昇を止めた途端に下落を始め、下落が下落を呼び、それによって悲観的な見方が蔓延した。下落の拡大は留まることを知らなかったのである。

実体経済に比べ過剰に上昇した株価

1929年10月24日の暗黒の木曜日では、ダウ・ジョーンズはその最高値である1929年9月3日の381から22%の下落となる299まで下がったが、その前日においてすらほぼすべての経済学者は、アメリカの株価上昇は経済の繁栄、一般物価の安定、そしてアメリカ経済の見通しの明るさによって完全に正当化できると考えていた。そうした経済学者の中には、例えばアメリカの最も偉大な経済学者であるアーヴィング・フィッシャーも含まれていた。

しかし、一見すれば1925年から1929年にかけての215%の株価の上昇は、実体面という観点でのアメリカ経済の進展と比べると理解しがたいようにみえる。というのも、1925年から1929年にかけての4年間で実質GNPは13%、工業生産は21%しか伸びておらず、失業率は3%で安定していた。同じ期間において、名目GNPは11%だけ上昇し、一般物価水準は2%下落、マネーサプライ(現金に普通預金と定期預金を加えたもの)は11%しか上昇しなかった[1]

しかしながら、1925年1月から1929年8月にかけて、ニューヨークの銀行における預金の流通速度は140%上昇した。ウォール・ストリートにおける株価の上昇を招いたのは、こうしたニューヨークの銀行における預金流通速度の上昇なのである[2]

恐慌

1929年の株価暴落によって生まれた悲観的な見方の高まりは、1929年から1932年にかけて約20%のマネーサプライと約30%の銀行預金の収縮を招いた[3] 。その際、連邦準備制度はベースマネーを9%上昇させることでこうした収縮への対処を計ったが、効果はなかった。

投機家たちは株価の購入を短期資金の借入によって賄っていたのであり、高騰した金利によって新たな借り入れが難しいばかりか、債務を返済しようにもどれだけ価格を下げても株が売れないことに気付くこととなった。特定の預金の膨大な引き出しは多くの銀行の倒産を招き[4] 、それによってマネーサプライはますます収縮することとなった。

こうした悲観的な見方や行き詰った雰囲気、マネーサプライの収縮によって国内総生産は名目で44%、実質で29%減少し、工業生産は40%、一般物価指数は21%減少することとなった。

失業率は1929年には3.2%だったものが1933年には25%にもなり、労働力人口5100万人のうち1300万人が失業者という事態となった[5] 。当時、アメリカの総人口は約1億2000万でしかなかったのだ。

過剰債務

大恐慌の被害を酷く深刻なものとしたのは、1929年の株式市場崩壊に先駆けて蔓延していた過剰債務だった。そしてこの過剰債務はアメリカ国内だけでなく、国外にも広がっていた。

・アメリカ国内においては、家計及び企業の債務総額[6] の大部分は銀行からの借入だったが、これは1921年から1929年にかけて大規模な拡大を見せた。1929年にはアメリカの国民総生産の1.6倍にもなっていたのである。大恐慌による価格の下落と生産の減少によって、これら債務の負担は支えきれないものとなった。

それと並行して1921年から1929年の間、連邦政府や州及び自治体の債務も同様に大きく上昇した。1929年にはそれぞれGNPの約16.3%、13.2%に上っていたのである。

・アメリカ国外においては、1921年にドイツが負う賠償金総額が330億ドルと決定され、これは1929年におけるアメリカのGNPの約32%に相当する。ヨーロッパ各国は戦時債務として[7] 約116億ドルをアメリカに負っており、これはアメリカのGNPの約11%(訳注;明示はないが、1929年のGNP)である。

そして、主に銀行による貸付からなる民間貸出の総額は、1929年時点でアメリカのGNPの13.5%に相当する140億ドルとなっていた。また、これらの多くはドイツに対して向けられたものである。

戦時債務は支払不可能であった。ドイツが返済できた債務はごく一部であった上、その多くは借り入れによって賄われたのである。

大恐慌を酷く深刻なものとしたのは、これら債務負担と、その結果としての短期の国際資本移動であり、そしてそれらを招いたのはヨーロッパとアメリカの経済間のありとあらゆる複雑な相互依存である。実際、大恐慌に際してこれら全ての債務は、削減及び繰り延べせざるをえなかった。

大規模な資本移動と通貨切り下げ競争

アメリカを発端とする大恐慌は、先進国各国へと広がり、あちこちで経済の崩壊や失業、貧困、困窮を招いた。

1931年9月にイギリスが金本位制を放棄したのち、連鎖的な通貨切り下げが続いた。最も象徴的なものは1933年4月のアメリカによる金本位制放棄である。

通貨に対する投機、大規模な資本移動、競争的な通貨切り下げ、そして国外の混乱を防ぐために各国が行った保護主義的政策によってこの期間全体は特徴づけられる。

為替相場は最終的に、1936年末頃に通貨切り下げの連鎖が起きる前である1930年のそれと大差がないところに落ち着いた。

心理的要因と貨幣的要因

1925年から1929年にかけての株価上昇が、同時期におけるアメリカの実体経済の進展と比して理解しがたいものであるとすれば、1929年から1932年にかけての実体経済の活動の落ち込みの不可解さも、少なくとも一見上はそれに劣るものではない。株価の下落はどのようにして、それ自身が経済活動の減退を引き起こすことを可能にしたのだろうか。

この二つの現象は一見すると幾分不可解にも見えるが、実際ところ心理的要因と貨幣的要因の双方を考えてみれば完全にはっきりとするのである。

経済が順調である際には、所望の現金(les encaisses désirées;参考)は減少し、その結果として総支出が増加する。経済が不調である場合は、所望の現金が上昇し、総支出は減少する[8] 。同様に、上昇すると信ずることが銀行支払手段を無から(ex nihilo)作り出すことを引き起こし、下落への懸念は無から作り出された支払い手段の破壊を生み出す[9]

上昇は上昇を呼び、下落は下落を呼ぶ。株式の上昇や下落に投機する者たちが気にするのは「ファンダメンタルズ」ではなく、自分以外の全てがするであろう心理的評価なのである。

1929年から1934年の大恐慌と信用メカニズム

1929年から1934年にかけての大恐慌の発生と進展は、信用メカニズムの有害な効果を示すのには正しく最良の事例である。

  • 銀行システムによる無からの貨幣創造
  • 部分的な預金準備
  • 短期の資金借入れによる長期投資のファイナンス
  • 信用による投機のファイナンス
  • 貨幣の実質価値の変化とその結果としての経済活動の変動

1929年の危機が大規模なものになったのは、アメリカにおいて信用売買が不合理なまでの拡大したことと、それによって可能となった、あるいはそれが引き起こした常軌を逸する株価の上昇の結果である。

1929年に至るまでの経済の繁栄と株価の上昇に対する支配的な見方は、全面的肯定にも等しいものであった。それは「ニュー・エラ」、全世界へと開かれた全面的繁栄の新時代とされていたのだった。

しかしながらこれまでの研究は、経済繁栄については実体面を慎重に考慮する必要があることを示している。すなわち、潜在的な不均衡の進展は、初めは比較的大したことがないように見えるものの、それが具体化、累積すれば集団心理の根底からの変化を招きうるからである。

1929年危機

1929年の株式市場崩壊に先立つ数年間においてアメリカを始めとする各国が享受したニュー・エラの本質を言い表すとすれば、それはすなわち無知である。19世紀に起きた全ての危機と、それらの実際上の意義に対する本質的無知なのである。

1929年から1934年にかけての危機は、実のところ19世紀に起きた数々の危機の焼き直しでしかなく[10] 、その中でも1873年から1879年にかけてのかけての危機は、おそらく最も類似しているものの一つであろう。

実際、18世紀、19世紀、そして20世紀に起きた危機は、おしなべて過剰なまでの支払契約とその契約の貨幣としての流通が行き過ぎることが原因となっているのである。[11][12] いつの時代も場所を問わず同じ原因が同じ現象を生み、起きるべきが起きているのである。

クレマン・ジュグラーやアーヴィング・フィッシャー[13] のような最も明晰な経済学者たちは、数々の危機のメカニズム、発生、進展について洞察し、分析を行った。残念ながら彼らは理解されず、耳を傾けられることはなかった。もし彼らのメッセージが完全に受け取られ、その分析が完全に理解されていたのであれば、現在の状況は全く違ったものとなっていただろう。

  1. 原注1;マネーサプライM1(現金と普通預金)は3.8%増加し、マネーサプライM2(M1に定期預金を加えたもの)は10.8%増加した。ベースマネーB(現金と連邦準備制度への預け金)の増加は0.9%だけだった。M1-BやM2-Bで表される銀行預金の伸びは、それぞれ5.0%、12.8%でしかなかった。 []
  2. 原注2;総支出はマネーサプライと貨幣の流通速度との積に等しい。 []
  3. 原注3;実のところマネーサプライM1は21%、マネーサプライM2は23%減少し、M1-BとM2-Bはそれぞれ31%、28%の現象だった。 []
  4. 原注4;部分的な預金準備という制度下においては、どの銀行も大量の引き出しに対応することはできない。アメリカでは、1931年に2550もの銀行が破たんした。 []
  5. 原注5;当時、失業者に対する援助は民間慈善事業しかなかった。 []
  6. 原注6;消費者向け貸出、住宅ローン、企業負債 []
  7. 原注7;アメリカは不当にもこれを単なる商業的な負債と同様に考えていた。 []
  8. 原注8;総支出の変動Dは次の二つの要素を含んでいる。すなわち、民間保有の現金総額M(これはマネーサプライと等しい)と所望の現金の総額Md(取引参加者が保有したいと考えている現金量の総和に等しい)との相対的な差がまず一つであり、もう一つはマネーサプライMの相対的な上昇である。
    所望の現金の総額は、本質的には心理的要因に依存する。楽観的な機関においてはMdは減少し、悲観的な期間においては上昇する。Mdの減少は、すなわち常に総支出Dの上昇と結びついており、Mdの上昇は常に総支出Dの減少と結びついているのである。これにより景気後退は悪化することになる。(Allais, 1968, Monnaie et Développement. I. L’équation fondamentale de la dynamique monétaire, p. 83)[右掲書の付録では、貨幣動学の基本的な方程式についての説明がある。] []
  9. 原注9;銀行通貨(訳注;手形小切手など)の創造には2つの意欲が関わってくる。すなわち貸し出しを行う銀行の意欲と、借り入れを行う経済主体の意欲である。経済的繁栄の時期には、双方の意欲が存在し、銀行通貨は増加する。景気後退の時期には双方の意欲が消滅し、銀行通貨は減少する。 []
  10. 原注10;1837年の危機の際、レオナルド・ベーコン司祭は5月21日の説教で次のように宣言した。「数か月前、私たちの国の比類なき繁栄は普遍的な祝福の的でした。そうした財産の増加、急速に拡大する個人や公共の富、偉大な冒険精神の現れ、力強くまた合理的とも見えるとどまることない成功の可能性への信頼、これらは過去には決してなかったものです。しかしそうした繁栄の全てはあまりにも突然に止まってしまいました!先に述べた信頼は、今日とりわけ私たちの国においては商取引の基盤となるものですが、時とともに崩れていっています。私たちの国のあらゆる金融業者はもだえ苦しみ、混乱しているようです。堅実な原則の下に…事業を営む業者は…損失に損失を重ね、しまいには工場を閉め労働者を解雇するという事態に陥っています。富を求めた投機家は、夢見た富が吐息の如く宙に消えるのを目の当たりにしています。…これから先にどういったことが起こり得るのでしょうか…こうした苦境が刻一刻と広がり、一層深刻なものとなっているということを知るだけで十分です。」(Irving Fisher, Booms and Depressions, 1932)(訳注;原文では英語のまま引用されているが、便宜上訳出した。なお、フィッシャーの原文はここで読める。また、一部のみ邦訳されている。) []
  11. 原注11;19世紀に起こった危機に関し、クレマン・ジュグラーが1860年の時点で既に書いている。「商業的危機(Les crises commerciales)は信用の動きの根本的変化の結果である。信用とは何であろうか。後で払うという約束と交換で得られる単なる購買力だろうか。…銀行や銀行家の役割とは後に支払いを受けるという約束とともに負債を購入することである…人々は信用の創造を濫用しがちであり、そうした濫用によって信用創造それ自体が商業的危機を招くのである。
    信用は第一の原動力であり、推進力をもたらす。単なる商業手形や為替手形への署名により、無限とも思える購買力をもたらすのは信用なのである…商業の発展、価格の上昇に資するもの、それは信用である…商品の取引一つ一つが新たな支払いの約束を生み出す…」(Clément Juglar. Des Crises commerciales et leur retour périodique. 1860. 2ème édition, 1889)(訳注;原文はこちら) []
  12. 原注12;貨幣動学の因果関係に関する総合的な分析については、拙著”Économie et intérêt”(Éditions Clément Juglar, 62, avenue de Suffren. Paris 15e. Tél : 01.45.67.48.06)の第二版導入部で示した。私の分析についてのさらなる文献については、pp. 116 及び 117, 154 と164-165を参照せよ。 []
  13. 原注13;特にFisher “Booms and Depressions(1932)”,”Stamp Scrip(1933)”,”Stable Money A History of the Movement(1934)”,”100% Money(1935)”を参照のこと。 []