ポスト・ケインジアンへようこそ

以下はUnlearning Economics “Introducing Post-Keynesian Economics“(Pieria September 17, 2013)の訳


異端の経済学に対してよくある批判は、その本質が批判することにあって、主流の経済学の代替となるものを用意するということがほとんどないというものだ(少なくとも、オーストリアンやマル経の”過激派”を除けば)。確かに、僕を含め異端派の経済学者は、代替となる理論を論じるよりも多くの時間を主流派経済学の批判に費やしている。それでも、実際には価格、分配、金融、貿易の代替理論に関する膨大な量の研究がある。以下では、経済理論に対する「ポスト・ケインジアン(PK)」流のアプローチとして知られているものをざっと書いてみようと思う。このエントリはPK理論の擁護ではなく、その紹介を願うものであって、批判は基本控えているということを覚えておいてほしい。

消費者理論

PKはマクロ経済学に主軸をおいているから、消費者理論についてたくさんの研究があるわけではないけれど、それでも特定の理論的枠組みについての合意がある。この枠組みを最初に示したのはマーク・ラヴォイで、彼は既存の研究を取りまとめて、そこにかなりの整合性があることを発見した。つまり、異なるPK学者間や、PK消費理論とPKマクロ理論、そしてPK理論と実証済みの精神・行動上の特性の間の整合性だ。

PK理論では、財のバスケットから最適効用を計算するというコンピューターでも不可能なことの代わりに、消費者は単純で大雑把な決まりに従う。他人をまねることと、強く(自ら)制限した選択肢に基づいて決定を行うことだ。人々の消費は大部分は所定のものの繰り返しであって、新古典派的な言葉の意味においての「決定」を行うことは稀だ。消費者は実際には何も「最適化」しておらず、せいぜい「満足化」といったところだ。

消費者はまず、自分の消費を特定の分類の財とサービスに分け、それらの分類を階層的なやり方で選択する。食べ物や住居費のような基本的な必需品は、何よりもまず第一に充足されるだろう。そして消費者が一つの分類に関しては満足すると、彼らは次の分類に移ることになる。こうした階層的な並びは、「代替効果」よりも「所得効果」が優勢だということを意味し、所得は需要の水準と種類の双方について相対価格よりも重要な決定要因だ。このことは、経済は一般的に需要主導型で、賃金はその需要の鍵となる要素であるというポスト・ケインジアンのマクロ経済学と整合的だ。

一つの財が他の財によって代替される水準の価格が常に存在すると仮定する新古典派の効用関数と異なり、このモデルにおいては消費者はそれぞれの分類を大部分独立した形で考える。消費者は、スカーフの価格のせいで部屋の賃貸をより好むようになるということはない。それでも基本的な「必需品」が満たされると、それに引き続く「欲求(want)」、これは大部分社会的に創り出されるけれど、そうしたものはよりさっくりと代替可能だ。例えば、洋服とiPodスピーカーとか。

生産者理論

ポスト・ケインジアンには新古典派生産者理論の欠陥について言うことが山ほどある。特に、ほとんどの企業が限界主義の価格決定理論(marginalist theories of pricing)によって、どうやら完全に当惑してしまっているのだから。そういうことから、PKのアプローチはずっと単純で、実際に観察されるビジネス慣行ともより調和的だ。(以前に書いたように、限界主義的な見方は農業とはより親和的かもしれないけれど、工業とはかけ離れている。)

研究によれば企業は「コストプラス」ルールを価格決定に使っていて、生産物の平均費用に特定のパーセントをマークアップ(上乗せ)として追加している。このマークアップは色んな要因によって左右される。市場の支配力だったり、規範や企業の歴史、株主の要求、そして気分のようなものにすら左右されたりする(例:多くの場合、価格は端数のない区切りのよい数字になっている)。企業がこうしたやり方をするのには、いくつかの理由がある。つまり、これが簡単で計算費用を節約できるというもの、限界費用と限界収入に関する知識は学ぶのが難しかったり不可能だったりするというもの、特定の利益率を確保でき、事業計画と予測を立てるのに役立つというものがそれだ。(企業が十分に大きくない場合は大概において市場価格に追従するだろうけど、これは大抵の場合完全競争的なシナリオとは関連性が薄く、支配的企業による特定の価格と費用の決定ということと関連性が高い。新聞の売店やコカコーラ/ペプシを思い浮かべてほしい。)

これは、価格が「粘着」的なのは何らかの精神的障壁や市場の失敗によってではなく、企業が将来の相当の期間に渡って受け取る収入のフローを、確実にしたいと思っているからだということを意味する。価格はめったに市場を均衡させず、それを目的ともしていない。企業は一定程度の柔軟性を確保して、需要の変化への対応力を残しておきたいと考えているんだ。さらに、企業は一般的に規模に対して収穫一定(実際のところはおそらく逓増)で、だから数量は価格よりもすんなり変化する(消費者も頻繁な価格変更を嫌う)。最後に、キャメロン・マレイが理論化したように、企業は投資の最後の一滴まで搾り取るよりは、一般的には収益(returns)(利益(profit)/費用)を求める。大概において、企業内部の仕組みや経営上の意思決定を理解することは、「需要ー供給」の仕組みを理解することよりもしばしば重要なのだ。

内生的貨幣

内生的貨幣はブロゴスフィアにいるものにとっては目新しいものじゃないから、この点に多くは割かない。主要な原理は、現代資本主義経済は何よりもまず信用に基づいているというものだ。複式簿記を通じて銀行は信用という形で貨幣を創りだし、ほとんどの取引は単に人々の口座間の送金という形で行われる。貸し出しが行われるとM1が拡大し、それが返済されると同額分だけM1が縮小する。これはマネーサプライが経済活動の水準と対応しているということを意味し、その逆(もしくは「ホットポテト」効果)じゃない。

銀行は準備預金を用意する前に信用を拡大するから、貨幣の因果関係は主流派経済学と比べると「逆向き」になっている。広義のマネーサプライが狭義のものに先行して上昇するんだ。中央銀行の役割は大部分受動的だ。公開市場操作を通じて準備預金の価格に影響を与えることができるけれど、量については限定的なコントロールしか持たない。緊縮的になりすぎると銀行システム、ひいては経済全体にまで多大な問題を起こしてしまうからだ。中央銀行は、理論上は準備預金の量を好きなだけ引き上げることが出来るけれど、より広義のマネーサプライ(もしくは所得)をコントロールすることは出来ないから、これは大部分的外れの行動だ。

国際貿易

ポスト・ケインジアンの貿易理論は、その名前に違わずケインズ自身の有効需要と貿易に関する研究から強く影響を受けている。主流派経済学の比較優位によれば、生産条件は技術や選好、資源賦存量といった固有の「供給側」要因によって決定され、「貿易障壁」が全くなければ価格によって完全雇用が作り出される。一方ケインズは、雇用と生産の水準は有効需要もしくは独立支出(autonomous expenditure)の水準によって決定されると考えた。

ケインズの枠組みでは、相対価格と賃金が別々に決定されるために、名目賃金と価格の減少のどちらか一方もしくはその双方ともに、実質賃金の減少につながるとは限らない。さらに、労働者は資本家よりも高い限界消費性向(MPC)を持つために、どんな実質賃金の減少も需要を減少させうる。そして最後に、全体的なデフレは現金の価値を上昇させ、人々を支出よりも貯蓄に走らせる。貿易相手国よりも生産性の低い「自由貿易」国家は、より少ない量の需要にそのまま直面するということをこれは意味する。非生産的な産業から追い出された労働者は、新しい分野に移動するのではなく原則として失業し、この不均衡を「正す(correct)」長期傾向は存在しない。実際のところ、ベルドーンの法則に従い、長期の生産性成長率は産出の成長の関数として見なされる。

ポスト・ケインジアンの考え方では、しばしば投機的である資本フローが「実物」貿易を支配する。投資家は可能な限り高い収益を求めるから、資本は比較優位ではなく絶対優位にしたがって移動することになる。だから資本規制がない場合、外国からの資本の流出入が断続的な影響をもたらすために、金融政策当局は金利を完全にコントロールすることはできない。そして中央銀行は原則として「完全雇用」水準よりも高い水準に金利を設定しなければ、その国はキャピタルフライトを被ることになる。(過去50年をぱっと見るに、これは幾分正しいように思える。資本規制と為替レート管理が行われていたブレトンウッズ時代とその後の「自由化」時代を比べると、前者は後者よりも金利と失業率がともに低い。)

まとめ

上に挙げたアプローチ全ての間にはいくつか特筆すべき類似性がある。第一に、ポスト・ケインジアンは鍵となる変数(賃金、金利)は貨幣的なものであり、実体的な現象ではないと強調する傾向にある。これは実物的な概念が重要ではないということを意味するのではなく(むしろそうしたところからは程遠い)、実物的な概念は分析の出発点としては不適切なことが多いということを意味する。第二に、原則として特定の変数が特別な地位を与えられていることはない。消費者と生産者は「最適化」をしないし、国家間の貿易は長期にわたって不均衡を続けうる。そして経済は需要が沈滞した状態に置かれ続ける可能性があり、それが価格調整によって解決されることはない。第三に、制度的なものが強く重要視されている。価格や需要、貿易が社会規範や合意というようなものに依存し、経済主体は確実性の程度を長期間維持するために意思決定を固定化しがちであるために、歴史的な経路依存に基づく異なった経済動向が継続しうるのであって、「すべてに当てはまる」モデルは存在しない。

  • 前田

    PKのマークアップ価格はある程度定着した訳語かと思いますので,mark upは「上乗せ(マークアップ)」あるいは「マークアップ(上乗せ)」のようにしてはどうでしょうか.

    「名目賃金と賃金の減少のどちらか一方もしくはその双方とも」→「名目賃金と価格」

    「「貿易障壁」全くなければ」→「「貿易障壁」が全くなければ」

  • 前田

    「だから資本規制ない場合」→「だから資本規制がない場合」

    「これは現実に対する理解が重要ではないということを意味するのではなく」→「これは,実物的な概念が重要でないということを意味するのではなく」

    「分析のスタート地点がしばしば貧弱なものであることを意味する」→「実物的な概念は,分析の出発点としては不適切なことが多いということを意味する」

  • 227thday

    御指摘ありがとうございます。そのまま修正させて頂きました。