「予想インフレ率を測る新たな指標 ~日本の予想インフレ率の動きを辿る~」 by Benjamin Mandel and Geoffrey Barnes

以下は、Benjamin Mandel and Geoffrey Barnes, “Japanese Inflation Expectations, Revisited”(Liberty Street Economics, April 22, 2013)の訳。


金融政策がその仕事を果たしている(成功している)かどうかを測る重要な指標の一つは、インフレ期待を安定化させる(インフレ期待にアンカーを与える)中央銀行の能力である。なぜなら、インフレ期待は実際のインフレの動向に影響を及ぼすからであり、それゆえ(中央銀行に課せられた)インフレ目標が達成されるかどうかを左右することになるからである。このことは特に日本経済に関して重要な意味合いを持っている。日本では1994年以降CPI(消費者物価指数)で測ったインフレが度々マイナスを記録しており、さらには将来のインフレに関する期待(予想インフレ率)は長らくマイナスの領域にとどまったままだ(つまりは、デフレの継続が予想されている)と広く考えられている。このエントリーでは、日本における予想インフレ率を測る新たな指標-購買力平価のアイデアに依拠した、市場データに基づく指標-を取り上げ、その評価を行う。詳細は追々触れることになるが、その指標によると、ここ最近の日本の予想インフレ率は過去3年間におけるピークの水準を大きく上回る結果となっている。

ここで簡単ながら関連する背景情報を提供しておこう。つい最近のことだが、日本銀行はインフレ期待にスポットライトを当てた政策行動に踏み出した。去る4月4日、日本銀行は量的・質的緩和(Quantitative and Qualitative Monetary Easing ;QQE)と呼ばれるプログラム(pdf)(日本語はこちら(pdf))の導入を宣言し、マネタリーベースの拡大を促すために資産の買い入れ額を劇的に増やすとともに、(満期が長めの資産の買い入れを進めることで)バランスシート上で保有する資産の満期を延長する旨を約束したのである。日本国債の名目利回り(名目金利)は既に極めて低い水準にあることを考えると、今回導入された量的・質的緩和プログラムが成功を収めたと言えるかどうかは、予想インフレ率が日銀の掲げる2%の物価安定目標に近いところまで上昇し、その結果として実質金利が低下するかどうかによって判断されることになるだろう。

いかにして予想インフレ率を測るか;予想インフレ率を測る既存の指標

日本の予想インフレ率はいかにして測ることができるのだろうか? この問題に関しては次のようなコンセンサスが存在する。それは、日本の予想インフレ率を測る上で頼りになる指標は存在しない、というものである。アメリカの予想インフレ率を測る際に通常よく利用される市場データに基づく指標は、普通国債と物価連動国債(TIPS)の利回りのスプレッド(差)から算出されるいわゆるブレーク・イーブン・インフレ率である。また、市場データに基づく他の指標としては、インフレスワップと呼ばれる店頭デリバティブの情報も利用されている。一方、日本の物価連動国債(JGBi)はマーケットでの取引が極めて少なく、近年になって発行残高の大半が財務省によって買い戻されたという事情もあって、物価連動国債のデータは日本の予想インフレ率を測る指標としてはあまり頼りにならないと見なされている。また、日本ではインフレスワップも市場の厚みの面で物価連動国債と同様の問題を抱えている。

予想インフレ率を測る指標には、 家計や投資家、経済予測の専門家らに対するアンケート調査に基づくものも存在する。しかしながら、そのようなアンケート調査での回答はバックワードになりやすい面がある。すなわち、回答の結果は将来的なインフレ予測[1] を反映するよりも実際の(直近の足許における)インフレ[2] に強く影響される可能性があるのである。ちなみに、市場データに基づく指標(ブレーク・イーブン・インフレ率(紫色の線)とインフレスワップ(赤い線))とアンケート調査に基づく指標(日経クイックサーベイ(青い線)と日銀による生活意識に関するアンケート調査(緑色の線))の推移を表したのが以下のチャートである。ここ最近になって、5年、10年先の予想インフレ率を測る指標がいずれも1%近辺に集中していることがわかるだろう。しかし、既に指摘したように、これらの指標から予想インフレ率の正確なサインを読み取ることができるかどうかという点に関しては多くのアナリストはそれほど信頼を置いてはいないことだろう。

購買力平価に基づく予想インフレ率の指標;予想インフレ率を測る新たな指標

以上のように、日本の予想インフレ率を測る既存の指標に関しては色々と問題があるわけだが、そこでここでは市場データに基づく別の指標にスポットを当てて日本の予想インフレ率の推計を試みることにしよう。以下では、アメリカの予想インフレ率-予想インフレ率を測るために利用される物価連動国債(TIPS)もインフレスワップもアメリカでは活発に取引がなされている-と購買力平価説に基づいて日本の予想インフレ率を推計する。筆者らが知る限りでは、日本の予想インフレ率を推計するにあたってアメリカの予想インフレ率や購買力平価が利用されることは滅多にないが、我々の判断ではこれらのデータやアイデアは物価連動国債(JGBi)やインフレスワップに代わる有益な情報を提供するものと思われる。我々のアプローチと類似した観点に立ったものとして、ゴールドマン・サックスによる調査(“The Market Consequences of Exiting Japan’s Liquidity Trap,” Global Economics Weekly 13/05, February 2013)-このレポートでは、日本の予想インフレ率を推計するにあたって、ドル円の先物為替レート(30年)が利用されている-が存在することはここで指摘しておこう。

ここで我々が利用する指標は購買力平価(Purchasing Power Parity;PPP)のアイデアに依拠するものである。購買力平価説によると、任意の二国間の名目為替レートはその二国間の物価水準の比と等しくなると考えられている。これまでの研究によると、購買力平価説は長期的な名目為替レートの動きを説明する上では比較的あてはまりがよく、中でも相対的PPPのあてはまりがよい-つまり、水準によるPPP(絶対的PPP)よりも変化率によるPPP(相対的PPP)のほうがあてはまりがよい-ことが知られている。相対的PPPによると、日本における将来の物価水準の期待変化率(≒予想インフレ率)は、アメリカにおける将来の物価水準の期待変化率に名目為替レート(ドル円レート)の期待変化率を加えたものに等しい(日本の予想インフレ率=アメリカの予想インフレ率+名目為替レートの期待減価率)、ということになる[3] 。ここでは、アメリカの予想インフレ率を測る指標として(物価連動国債(TIPS)のデータから算出される)アメリカのブレーク・イーブン・インフレ率を用い、名目為替レートの期待減価率の計算にあたってはドル円の先物為替レートを利用することにしよう。

購買力平価に基づいて求められる日本の予想インフレ率の推移を表したのが以下のチャートである。以下のチャートでは日次データを利用しており、2010年1月以降における5年先(赤い線)、7年先(緑色の線)、10年先(紫色の線)の予想インフレ率の推移がそれぞれ描かれている。予想インフレ率にシフトが生じているタイミングを見ると、予想インフレ率の動きは政策面での変化と関連があることが示唆されるだろう。それというのも、以下のチャートによると、過去3年間にわたり予想インフレ率は政策面での主要なイノベーション(新たな行動)の実施後にそれぞれピークに達していることが読みとれるからである。 2010年10月に日本銀行は「包括的金融緩和」(pdf)(日本語はこちら(pdf))に乗り出したが、その後予想インフレ率の上昇が引き起こされていることがわかるだろう。しかしながら、2011年の半ば頃までには予想インフレ率は包括的金融緩和が実施される以前の水準にまで低下することとなった。そして、2012年2月に日本銀行は「1%の物価安定の目途」(pdf)(日本語はこちら(pdf))を発表したが、その発表後再び予想インフレ率は上昇する-包括的金融緩和の実施後と比べると軽微な上昇ではあったが-こととなった。しかし、その数ヶ月後には予想インフレ率は再び元の水準(1%の物価安定の目途の発表以前の水準)にまで低下していることが見て取れる。最後に、つい最近の予想インフレ率の動きに目を向けることにしよう。2012年9月に自民党は安倍晋三を総裁として衆院選挙を争うことを決定し、12月に行われた選挙では自民党が勝利を収めることとなった。そして、安倍が新首相の座に就くことになり、いわゆる「アベノミクス」と呼ばれる政策レジームが始動することになったわけだが、アベノミクスを受けて予想インフレ率は上昇傾向にあることがわかる。以下のチャートによると、アベノミクス後の予想インフレ率は先程触れた過去2回のピークの水準を大きく上回る結果となっている。

頑健性のチェック

購買力平価に基づいて求められたこの指標の頑健性(ロバストネス)をチェックするためには、日本とアメリカのペア以外にも同様の手続きをあてはめてみてその結果を比較するという方法が考えられるだろう。上で求めた日本の予想インフレ率の指標の動きがアメリカと日本の金融市場に備わる特異な性質によって強い影響を受けていないとすれば、ドル円以外の先物為替レートやアメリカ以外のブレーク・イーブン・インフレ率を用いて日本の予想インフレ率を推計しても似たような結果となるはずである。アメリカ以外の国として真っ先に候補となるのはイギリスであろう。というのも、イギリスの物価連動国債のマーケットは比較的流動性が高いからである。そこで、先のケースと同じように購買力平価に依拠しつつ、ポンド円の先物為替レートとイギリスのブレーク・イーブン・インフレ率を用いて日本の予想インフレ率を推計した結果をまとめたのが以下のチャートである(以下のチャートでは、日本-イギリスのペアに基づいて求められた日本の予想インフレ率の推移(U.K.-PPP;緑色の線)とあわせて、日本-アメリカのペアに基づいて求められた日本の予想インフレ率の推移(U.S.-PPP;赤い線)も描かれている)。その水準に関しては必ずしも完全に一致しているわけではないものの、2010年以降の期間における両者(U.K.-PPPとU.S.-PPP)の相関は極めて強い-相関係数は0.66-結果となっている。

この指標の頑健性をチェックするためには、購買力平価に基づいてアメリカの予想インフレ率を推計し、その結果とアメリカのブレーク・イーブン・インフレ率とを比較するという方法も考えられるだろう。以下のチャートには、イギリスの予想インフレ率(ブレーク・イーブン・インフレ率)とドルポンドの先物為替レートを用いて求められたアメリカの予想インフレ率(購買力平価に基づいて求められたアメリカの予想インフレ率;緑色の線)とアメリカのブレーク・イーブン・インフレ率(赤い線)とがプロットしてある。2012年の後半に両者のデータが時折乖離や収斂を見せてはいるものの、この2つの指標に関しても相関は極めて強い-相関係数は0.64-結果となっている。購買力平価に基づいて求められた予想インフレ率の指標は、アメリカの物価連動国債(TIPS)から算出される予想インフレ率の良い近似となっていることが示唆されよう。

要約しよう。購買力平価は日本の予想インフレ率を測る市場データに基づいた代替的な指標の作成を可能とする。この指標は、日本銀行によるここ数年の金融政策面でのイノベーションに極めて敏感な反応を見せてきたように思える。また、異なる期間(5年先、7年先、10年先の予想インフレ率)や異なる国のペア(アメリカと日本、イギリスと日本、アメリカとイギリス)でも似たような結果が得られることから判断すると、購買力平価は予想インフレ率を測る頑健な(ロバストな)指標の作成を可能とすると言えそうである。

おことわり;このエントリーで表明された見解はあくまでも著者らの個人的な立場からなされたものであり、ニューヨーク連銀やFRBにおいて著者らが占める地位を必ずしも反映するものではない。エントリー中に含まれる誤りや誤字脱字はすべて著者らの責任に帰する。

  1. 訳注;将来的にインフレがどうなりそうかという予測 []
  2. 訳注;つい最近のインフレがどうであったか []
  3. 訳注;ということは、アメリカの予想インフレ率と名目為替レートの期待減価率とに関するデータがあれば、そこから日本の予想インフレ率を推測できる、ということを意味する []