「ルーズベルト政権の失態」 by David Beckworth

以下は、David Beckworth, “Maybe FDR Should Get More Blame”(Macro and Other Market Musings, September 11, 2011)の訳。


ルーズベルトと財務省による平価切り下げと金の非不胎化(金の流入を不胎化しない)の決定がいかにして1933~1936年の堅調な景気回復につながったか、という点に関してはこのブログでも何も言及してきた話である。この一連の政策行動は初めての量的緩和プログラム(邦訳はこちら)と呼ぶことができ、少なくとも1935年までは民間部門で依然としてデレバレッジ(債務の圧縮)がすすんでいた事実にもかかわらず、劇的なまでの効果を発揮したのであった。

1936~1937年に景気後退が発生したことでそれまでの景気回復に向けた動きは頓挫することになった。1936~37年の景気後退はちょっとした財政引き締めと大規模な金融引き締めのためにもたらされた、というのが通念となっており、特に後者(大規模な金融引き締め)はFedが預金準備率を引き上げたために生じた、と通常よく語られるところである。ところが、ダグラス・アーウィン(Douglass Irwin)は最近の論文(pdf)でこの通念に疑問を投げ掛けている。彼によると(邦訳はこちら)、景気後退をもたらした主たる原因は金融引き締めだというのは確かだが、金融引き締めが生じたのはFedが預金準備率を引き上げたためではなく、むしろ財務省が金の流入を不胎化する決定を行ったからだ、というのである。アーウィンはこう語る。

1937-38年の景気停滞があそこまで深刻であったのは、財政政策の引き締めや預金準備率の引き上げのせいではなかった。(その原因は、財務省が決定した金の不胎化政策にあったのであり、;訳者挿入)金の不胎化に伴って生じた金融ショックは決して穏やかなものではなかった。金不胎化政策の結果として、マネタリーベースの成長率が単に(プラスの範囲で)数%ポイント低下したというのではなく、その成長率はゼロ%にまで下落することになったのである。しばしばFRBに対して大恐慌下における稚拙な政策運営を叱責する非難の矢が向けられるものであるが、こと1937-38年の景気停滞下において生じた金融ショックに関しては政策上の誤りの責任は財務省にあったのである。

これは驚くべき発見である。というのも、1933~1936年の景気回復をもたらした主たる決定の一つ-金の流入を不胎化しないとの決定-が同じルーズベルト政権下で財務省により反転させられたというわけだからだ。言うなれば、ルーズベルトは自らの行動によって引き起こされた景気回復の息の根を自らの手で止めた、というわけだ。ニューディール政策のパッケージの中には市場の働きを歪めた政策(例えばNRA;米国復興局)も含まれていた事実にアーウィンのこの発見もあわせて考慮すると、ルーズベルト政権の評価は玉虫色となるのかもしれない。とはいっても、物価水準目標を伴った量的緩和プログラムに踏み出すだけの勇気ある行動を採ったことに対しては正当に評価せねばなるまい。水準目標を伴った量的緩和がうまく働く可能性をルーズベルトは現に示したのだから。

(追記)このエントリーを書いていて、2007~2009年にかけてブロゴスフィア(ブログ界)で断続的にたたかわされた「ニューディールの遺産」をめぐる熱い論争のことを思い出した。その際に-2009年初頭のことだが-私はその熱い論争を1枚の図に要約しようと試みたことがあった。以下がその図である。ご笑覧あれ。