マクロ経済学者たちはわかりあえるか? by Mark Thoma

12月27日のEconomist’s Viewに掲載されたMark ThomaのWill Macroeconomists Ever Agree?の訳。誤訳の指摘お願いします。


ケヴィン・ドラムがマクロ経済学者は将来合意に至れるのだろうかと不思議がっている:

私が理解できないのは、なぜ同じ分野のでさえこんなにも多くの言い争いがあるのかということだ。物理学や気候科学では、つむじ曲がりはほとんど胸に一物ある非専門家だ。真の実務家はかなり広く最低限の基礎について合意している。しかしマクロ経済学ではそうなっていない。最も基本的な質問のうちのいくつかにおいて高名な学者の間で真逆の意見の相違が未だに存在している。分野の複雑さを考えてもそれはいささか謎だ。経済学が物理学よりも政治的な分野であることは理解できるが、実際問題としてそれはほとんど100%政治化されていて、マットが言うように何についてでもギリシャ文字の証明で戦って解決しようとしているように見える。これは変わりそうになっているのだろうか? それとも現実世界の変化は経済が実際どのように動いているかについて合意を形成する私たちの能力をいつも追い越してしまうのだろうか?

私は2011年4月に当て推量でこれに答えてみた:

…なぜ経済学者は政府支出が増加したり減少したりしたとき、税金が変わったとき、Fedが金融政策を変えたときに何が起こるか語れないのか? 障害は経済学が根本的に非実験科学であることにあり、それは特にマクロ経済学の分野で顕著だ。物理学のような分野とは違い、私たちは実験室に行って「経済」という実験を異なる条件のもとで何度も繰り返し、例えば、金融政策や財政政策の平均的な効果を測定することができない。私たちは重要な政策に関する疑問に答えるために1つのマクロ経済の状況しか使えず、それが私たちの出せる答えの正確性を制限している。さらに、データは実験的というよりむしろ歴史的なので、実験室と同じように他のすべての変数を一定に保ったままある変数集合の間の関係だけを見ることができず、それがまた私たちの見積りの正確性を減少させている。

私たちは経済問題を調査するために実験室でのデータよりむしろただ1つの歴史認識しか持っていないので、マクロ経済理論家は過去のデータすべてを駆使してモデルを作る。あるマクロ経済認識に合わないモデルを作るのは時間の無駄だろうし、それがうまく合えば正確だ。残念ながら、ここにデータに合うモデルが2つあり、それぞれが金融・財政政策に対して全く違う含みを持っている。…[これがどちらのモデルが1番かについての激烈な議論につながる。]

しかし私たちが完璧なモデルと完璧なデータを持っていたとしてもなお、適切な政策方針をめぐって不確実性と意見の相違が起こっているだろう。経済学者は時間とともに物理法則ではありえないような形で人々と制度が変化するという事実に妨げられている。したがって、私たちが制御された注意深い実験を行えたとしても、私たちが学んだことが将来も正当であり続ける保証はどこにもない。

私たちが何とかしてこれらの問題の一つ一つを克服したとする。その後も経済政策についての意見の相違は政治の場にはびこるだろう。例えば増税による政府支出の変化が今と将来の経済にどのような影響を与えるかについて完全な知識があったとしても、個人間の思想の違いはこれらの政策の社会的な純価値に対する異なった見方を生み出す。左に位置する人は便益を高く評価し、右に位置する人より費用を軽視する傾向があり、これが経済政策の方針上の根本的で解決できない違いへとつながっている。

経済学の進歩はいつか経済政策上の党派分裂を狭めるかもしれないが、それでも経済に関する完璧な知識は私たちの政治論議への大いなる情熱の元となるイデオロギーの違いを消し去りはしないだろう。

続編の2月のポストでは、経済学の大きな溝がデータで解決されうるとは全くもって限らない点を強調したが、全く希望がないわけではない:

…数あるモデルの中からあるモデルを選びとる能力は私がほのめかしたほど絶望的ではない。新しいデータや大不況のような最近の出来事は、これらのモデルを無法地帯へと追いやり、どのモデルがより良い予測ができるか評価する方法を提供する。しかしながら、歴史的データに対する信頼性のためにこれはゆっくりとしたプロセスになる―私たちはデータが蓄積されるのを待たなければならない―そしてやっとのことであるモデルを他のモデルと戦わせることができても、それで勝者に王冠を授けられるという保証はどこにもない。どちらのモデルも負けるかもしれない…

例えば大不況はNKモデルがその競合よりも出来事をうまく説明できる証拠を提供したが、それは到底満足のいく解釈ではなく、その予測・説明能力が成功であるとはとても呼べなかった。

このトピックに関する別の過去のポスト(2009年9月)だ:

…経済学には大統一理論はない。私たちにそれらすべてを包括する1つのモデルなどない。その代わりに私たちにあるのは、私たちが答えようと思った質問にうまく答えられるよう作ったモデルで、それ以外の質問にはうまく答えられないものだ。

とても長期的なインフレについて考えたい場合、古典的なモデルと貨幣数量説はとても良い水先案内人となる。しかしモデルは短期を見るにはほとんど適していない。どのように生産物や他変数がビジネスサイクルを廻るのかという質問に答えたり、それについてどうすべきかというアドバイスを与えたりするために、私は現在使える他のモデルより有益なケインジアンモデルの現代版(例えばニューケインジアンモデル)を使う(どれくらいこの手の「折衷主義」がアカデミアに入り込んでいるのかというと、これはミシュキンが彼の教科書の中で金融理論・政策について書いていたアドバイスであるとだけ記しておこう)。

しかしニューケインジアンモデルにも限界はある。それはカルボモデルによって捉えられる種類の価格硬直性によって回される「普通の」ビジネスサイクルを捉えるために作られた。このモデルの標準版では私たちが目の当たりにしている金融崩壊がどのように起こるのか説明できず、それゆえにこれについてどうするべきか言えることはほとんどない(それによって私は、通常の価格硬直性に基づいたDSGEモデルに根拠付けられた乗数を使う人々にほめちぎられた結果について疑り深くなった)。このようなタイプの障害によって私たちは他のタイプのモデルを必要としているが、それがどんなモデルなのかはっきりとはしていない。私たちが過去に見てきた金融市場の様々な失敗を取り込んだ、一般的に受け入れられている金融破綻のモデルはないのだ。

しかし私たちはどのようなモデルを使っているのだろうか? 私たちは古いケインズに戻るべきか、ロバート・ゴードンの好きな1978年モデルか、はたまた金融促進やそれらをさらに高めようとするような効果を含むニューケインジアンモデルの派生を取るべきなのか、それを続行するのは正しい道なのか? オーストリア学派が正しいのか? ミンスキーに焦点を合わせるか? それとも私たちはまだ見つかっていないモデルを必要としているのだろうか?

私たちにはわからないし、それがわかるまで、私は質問にもっとも良い答えを出せると考えるモデルを使い続けるだろう。私たちの多くが現在の危機を理解する手助けとするためモデルを振り返るのは、現在のモデルではどれも私たちが経験してきたことを説明できるないからだ。現在のモデルは主にほどよく安定的な環境の中のような大平穏期の文脈で政策を分析するために組み立てられた。それらには金融メルトダウンに関して言えることはほとんど何もない。私の最初の反応は、ニューケインジアンモデルに金融危機に対する洞察とそれについてどうすべきかが得られるような派生形があったかどうか訊ねることだった。その方向性での試みはいくつかあったが、それらはやや孤立しており、しっかりした政策の処方箋の展開のために必要な分析がなされていなかった。これらのモデルから学べることはあったが、それらは具体的な答えを出すという課題を処理しきれなかった。もしかしたらこなせるのかもしれないが、私たちはまだその域にはいない。

だから、十分なものが現在なければ過去を見始めるのだ。ケインジアンモデルは私たちが答える必要のある種類の質問をぴったり見られるように組み立てられており、このフレームワークの限界―現代の理論によって見つけられた限界―に気付いてさえいれば、それは完全雇用より少ない雇用で動いているとき経済がどのように作用しているのかについて考える手段を提供してくれる。この古いモデルはゼロ金利制約財政政策についてすでに気にかけていて、セイの法則、節約のパラドックス、金融政策vs財政政策、利子の変更、危機下での投資の弾力性、などなどについてすでに考えていた。私たちは危機の真っ只中におり、新しい理論が発展するのを待つ時間はなく、私たちには答え、それもここ数十年にわたって築きあげられたエレガントなモデルに出せなかった答えが必要なのだ。そこでケインジアンモデルが答えを提供した。私たちは答えに限界があることを知っていた―私たちは現代マクロ経済学における理論的発展とオールドケインジアンモデルの意味に気づいていた―しかしそれは案内が必要なときにも私たちが直面していたような状況のときに役に立つよう作られた理論構造の中で案内を提供したのだ。私たちにもっと良い答えがあったなら、とは思うがそうはなっていなかったので、私たちはできる限りの最善を尽くした。その「最善」には少なくともケインジアンモデルならなんと言うか、そのアドバイスに今日での妥当性があるかどうか、と問うことも含まれる。場合によっては妥当性はなかったが、しかしそれはその答えを無視する理由にはならない。

意見の相違はこのアプローチ―新しい洞察(例えば「IS曲線」の将来の生産物の予想)に導かれた古いモデル―を信頼出来る答えを与え政策の処方箋を出すことに使うという能力についても及んでいる。

これについてさらに別の過去ポスト(2009年3月)から:

モデルは質問に答えるために作られており、実際、モデル経済学者は今まで私たちが重要な質問への答えを見つけるのを手伝うために使ってきた。しかしモデルは今まさに重要な質問に答えるのには(全くもって)適していなかった。それらは市場が単に壊れてしまった世界での実際の政策に対する有用性を大きく削いでしまっていた。

その理由は、解決できるような数学的形式にするためにモデルは単純化しなければならなかったからだ。そしてそれらが単純化されたとき何かが犠牲にされなければならない。では何を犠牲にしよう? うまくいけば、それは1番重要でない問いに答える能力かもしれないので、モデリングによってなされた選択はモデラーが何がもっとも重要であり何がもっとも重要でないと考えているかを明らかにする。

私たちが作ったモデルは、完全雇用付近を経済がうろついているときやマイルドな「普通の」景気後退のさなかにあると自覚しているときにフェデラルファンズレートが0.25ポイント上がるのか下がるのか尋ねるにはとても有用だ。モデルはどのタイプの金融政策ルールが経済をもっとも安定させるのか教えてくれるかもしれない。しかしモデルは市場がメルトダウンしたり価格がファンダメンタルズから解離している世界や市場が不完全なときにはほとんど何も言うことができない。この危機が襲ってきたとき、私は私はモデルと政策推薦状の道具箱を漁ったが、ほとんどの部分で何も出てこなかった。それは残念なことだった。洞察のために古いケインジアンスタイルに戻るほかなかった。

ケインジアンモデルが息を吹き返した理由ははっきりと今まさに重要な質問に答えられるよう作られたからだ。現代的なマクロモデル―それらは主にここ数十年で専門家が努力してきたものが含まれる―を作った理論家たちはそのような状況をモデルに組み入れるどころかこんなことが起こるとは思ってもみなかった。市場は常に機能する、壊れなどしない、それならそんな可能性を考えるなんて時間の無駄だ。

だからそれは数学ではなく、モデリングでなされた選択とそれに伴う避けられない犠牲は、選択をした人が様々な質問に与えた重要性を反映していた。これは数学的な必然ではなく、誤った問いを立て誤ったモデルを作ってしまっただけなのだ。

ニューケインジアンは答えようとしてきた: 私たちは合理的なエージェントと完全市場を前提とした均衡モデルを使いながら、そのモデルに過去40年か50年の主なマクロ経済の変数の実際の動きに近似できるような方法で摩擦―例えば硬直的な賃金と価格調整―「カルボ価格設定」と呼ばれていることがわかる―を加えられるだろうか?

リアルビジネスサイクル理論家も同様に合理的なエージェントと完全市場を前提とする均衡モデルを使っていて、生産性や労働者供給へのショックのような供給側のショックがそれ自体で経済の動きを説明できるかどうかを見ている。彼らは主にマクロ変数の動きに対して需要側からの説明は拒否する。

争い―とアカデミックでの主な問い―は普段何がマクロ経済変数を動かしているのか、需要側のショック(金融政策、財政政策、投資、純輸出)なのか供給側のショック(生産性、労働者供給)なのか、ということについてのものだった。そしてそれは時にとても乱暴な戦いになってきていた―現在の政策論議の最中にも見てきた。専門家の中での論議は研究計画を指図してきた。

普通でないとき、例えば市場が壊れたり市場が完全でなかったりエージェントが合理的でなかったりなど、に何が起こるかというのは重要な質問の予定表のずっと下の方にある。理由として部分的に挙げられるのは、ジャーナルを管理していたり主に研究の方向性を指図する人たちがそれらの問いをとても重要だとは思っていなかった(政策が経済を手助けするとさえ信じていない人たちもいた、それならなぜそれを研究することに努力を費やすのか?)ということだ。

私は現在の危機がマクロ経済理論とモデリングに私たちの多くが思っているより大きな打撃を与えていると思う。

マクロ経済モデルの有用性についての一般的なトピックに関するさらに過去のポスト(2009年8月)があるけれども、今はこれを書いたときほど存在しているモデルが案内を提供する能力についてそれほど強気ではない。ポイントは、多くの人がモデルの有用性を測る尺度として予測能力を使っている(なぜなら経済がどこに向かっているのかというのが彼らにとってもっとも重要な問いだからだ)が、それがこれらのモデルの唯一の使い方ではない、ということだ:

マクロ経済モデルは有用か?: 今まで地震予知に捧げられてきた努力には何の不足もないが、それでもまだ人々を事前に安全な場所に避難させられるほど早くに予知することはできない。大地震が襲うのは不意打ちだ。私たちには事実の後にデータを見てはっきりとした圧力がかけられていたのがわかるかもしれないので、今にも地震が起きそうだと知っておくべきだったように見えるが、そのような回顧的な分析では次の地震を予測できない。正確な時間と場所はいつだって不意打ちなのだ。

それは科学が失敗したことを意味するのだろうか? 私たちはモデルを役に立たないと非難するべきだろうか?

いや。モデルには2つの使い道がある。1つは世界がどう動いているか理解すること、もう1つは将来について予想をすることだ。私たちは十分早い段階でその発生前に安全なところへ避難できるほど特定した上で地震を予測することはできないかもしれないが、それは私たちが地震の基となる科学を理解する妨げとはならない。多分私たちの理解が向上すれば予測は可能になるだろうし、そういうわけで科学者はモデルを改善するのを諦めるべきではないが、今はただ地震の到来を予測することはできない。

しかしながら、少なくともまだ地震が予測できないからといって、科学が何もできないと結論付けるのは間違っている。まず、どのように地震が起こるか理解することは、地震がいつ起こるか正確にわかっていないとしても、建物を設計したり損害を少なくするような他の変更を加えるのに役立つ。次に、もし地震が起こり、私たちのそれを遮断しようとする最善の努力にも関わらず実体的な結果が発生してしまったら、科学はその損害を相殺し軽減する役に立つ。ほんの一例を挙げると、病気感染に関する科学はこのような科学が利用できなかった頃には悲劇がしばしばひどくなっていた災害後の不潔な水の供給を避けるのに役に立つ。しかし私たちが同じくらいうまくできることは他にたくさんあり、どこがもっとも助けを必要としているか決めるのにモデルを使うのもその1つだ。

だから私たちが地震を予知できないとしても、モデルは地震がどのように起こるのか理解するために有用だ。この理解は、事前に災害に備えたり災害時の影響を最小化する政策を決定する助けになるので価値がある。

このすべてがマクロ経済学にも当てはまりうる。私たちが金融地震を予知しておくべきだったかどうかは広く議論されてきた質問なので、脇に置いておく。一方の側は金融市場の価格が地震のように変化するのは本質的に予測不能であると言う―いくら私たちのモデル(効率市場タイプ)が良くなったとしても決して予測できない、と。別の側は起こっている圧力は明らかだと言う。構造プレートが反対の方向に動きお互いにぶつかり合っているときにかかる圧力のように、それは「いつ」の問いであって、「〜かどうか」ではない。(しかし2つのプレートの間の圧力が増加していくのが観察可能だとしても、科学者たちには連続した小さな地震がその圧力を吸収してほとんど損害が生じないのか、それとも1つの調整ですべての圧力を出しきるのか出しきるのかどうか、確かにはわからない。金融危機に関しては、経済学者たちはたくさんの少ない小さな損害で調整を行うと期待していたが、実際には「大地震」が来て私たちが衝撃に耐えられると考えていた「建築や構造物」は全てばらばらに崩れ落ちてしまった。…)

金融危機が予知されるべきだったであろうとなかろうと、予知されなかったという事実は、地震予知に失敗したから地震科学が役立たずだというのと同じようにマクロ経済モデルが役立たずであることを意味しない。地震と同じように、予測が不可能(だったり外してしまったり)なときであっても、モデルはこのようなショックがどのように発生するか理解する手助けとなる。その理解は、次のショックに備えたり、それを防いだり、起きたショックの結果を最小化するために有用だ。

しかし私たちは先験的にこれらへの準備にとりかかるより事後に予期せざる結果を扱うほうがよっぽどうまくできる。地震が起こる前に建物の準備をしておくのと同じようなことが、金融セクターを分離し広い範囲の経済を金融やその他のショックの負の影響から避けるために制度や規制を変更することだ。ここで経済学者たちは過ちを犯したのだと思う―私たちの「建物」は地震の直撃に耐えられるほど強くはなかったのだ。私たちはショックがあまりにも大きかったので「建物」の崩壊を止めるさらなる適当な準備はもうなかったと主張することもできたが、前回の金融地震から時間が経ち、私たちが何をする必要があったのか忘れてしまったというのがより本当なのだと思う。私たちは適切な保護なしに新しい建物が立てられるのを許してしまった。

しかしながら、モデルがそれ自体役立たずだったわけではない。モデルはそこにあって、案内を提供したかもしれないが、そこに含まれる「建築基準法」が無視されてしまった。グリーンスパンなどは民間の建設業者が地震に耐えられない建物を建ててきたわけではない、市場がこれを考慮に入れると決めてかかっていた。しかし彼らはそれについて間違っていて、グリーンスパンでさえ政府の建築基準法が必要なことを認めている。建物に保護をすることを妨げてきたのは、モデルそのものではなく、その使われ方(むしろいかに使われてこなかったか)だった。…

私は、私たちのモデルの使い方でもっとも成功しているのは予測や予防や危機前の準備を通じてそれらを隔離することよりもむしろショックの後に整理することだと主張したい。それを防いだり先験的にその影響を最小化しようという私たちの最善の努力にも関わらずやはり不況を経験したとき、私たちはモデルを金融・財政・その他の政策がショックを和らげる助けになるよう導くために使える(これは災害が襲ったときに、水が安全に飲めたり人々が食料を持っていたり素早く効率的に再建する計画があるなどの状況に確実になるようにするのと同じことだ)。上に記したように、私たちは大きな危機を予測するのにほとんど良い仕事ができていないし、ショックの影響を防いだり制限したりする規制や制度の変更を実施するほうはずっと良い仕事をできたかもしれない。しかし私たちは発生後のショックの影響を最小化する政策決定に口を挟むことについてはとても良い仕事をしている。今回の不況は悪いものだったが、政策介入がなかったらなっていたかもしれないようなもう1つの大恐慌ではなかった。

将来的に私たちが不況に対して信頼の置ける予測ができるようになろうがならなかろうが、私たちのモデルが、大きなショックの前後にその影響を最小化したりもしかしたら完全にそれを防げさえするかもしれない行動のための少なくない案内を提供していることに気付くことは重要だ(もっとも、私たちはモデルが何を語らなければいけないかもっとよく聞かなければならないようになるのだろうが)。予測は重要だが、それがモデルの唯一の使い道ではないのだ。

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    “an axe to grind” はたぶん、「隠れた意図がある」という意味のイディオムじゃないかと思うんですが。下のリンクなど参照。

    http://en.wiktionary.org/wiki/have_an_axe_to_grind

    私も知らなかったですけど、語源は、ベンジャミン・フランクリンの子供の頃の逸話から来ているらしいですよ。フランクリン少年が庭で父親の砥石を見ていたら、通りがかった人が「ほう、素晴らしい砥石だね。どうやって研ぐのか教えてくれ」とかなんとか言って、自分の持っていた斧を騙して研がせたとかいう逸話から来てるらしいです。

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    “Even given the complexity of the field” は、読者の期待に反することを意味する副詞の even がついているので、「分野の複雑さを考えると」というより、「分野の複雑さを考慮に入れたとしても」というようなニュアンスだと思うのですが。

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    “we can’t go into
    the laboratory and rerun the economy again and again under different conditions
    to measure, say, the average effect of monetary and fiscal policy”

    “rerun” というのは、化学なんかで実験を再実行するときなんかによく使われる動詞で、ここでもそういうニュアンスじゃないかと思います。「経済」という名の実験を繰り返すということですね。(”return” と勘違いしたんじゃないかと想像しますが、”rerun” で十分文脈に合っています。)

    “say” は「たとえば」というニュアンスではないでしょうか。不定詞 “to measure” とその目的語 “the average” の間に挿入された形で、測定対象はいろいろ考えられるが、「たとえば」金融・財政政策の平均的な効果を測定するということですね。

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    “we cannot look at the
    relationships among a set of variables in isolation while holding all the other
    variables constant as you might do in a lab”

    決して間違いではないと思うのですが、語順的に少々分かりづらくなっている気がします。”the
    relationships among a set of variables” が意味的に一まとまりなので、あまり言葉を離さない方がわかりやすくなるのではないでしょうか。
    たとえば、

    「実験室でやるように、他のあらゆる変数を一定に維持したまま、特定の変数集合間の関係だけを単独で見るということができない」

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    “over time in a way that
    the laws of physics do not”

    “do not” は “do not change” の略で、「物理法則ではありえないような方法で変化する」ということでしょう。実際には物理法則は(少なくとも人類の歴史ぐらいのスケールでは)変化しないので、「変化しない物理法則」対「変化する人間・制度の法則」という対比に力点があるような気がします。ですから、”over time” も「時間をかけて」というより「時間の経過とともに」というようなニュアンスではないかという気がします。

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    “ideological
    differences across individuals” の “individuals” は「個人」ではないでしょうか。単純に「個人間の思想の違い」でいいと思いますが。

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    “Even
    with full knowledge about how, say” の “say” が訳抜けのようです。これも「たとえば」というニュアンスだと思います。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “the
    ideological differences that are the source of so much passion in our political
    discourse” の解釈が逆のような気がしますが。”the
    ideological differences” が “the source” だと言っているのだから、「思想の差」→「議論の情熱」という方向だと思います。 

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    “there’s no guarantee that once we are finally able to pit one
    model against the other we will be able to crown a winner.”

    この “once” は、「ただちに」という単独の副詞ではなくて、”once we are finally able to pit one
    model against the other” という副詞節を作る接続詞だと思います。意訳すれば、「最後にやっと あるモデルを別のモデルと闘わせることができたとしても、勝者を決められるとは限らない」という感じではないでしょうか。文脈としては、まず闘わせること自体が難しい、そして仮に闘わせられたとしても、一方が勝つとは限らない。両方負けかもしれない、という感じでしょう。

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    確証はないですけど、”grand, unifying theoretical structure” というのは、物理学の大統一理論(grand unified theory。電磁力、弱い力、強い力を統一的に説明する理論)にひっかけているような気がします。

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    “that are
    good at answering some questions – the ones they were built to answer” というのは、”some questions” = “the ones” という同格構文の後ろに関係節がくっついた構文ですよね。だから、「私たちの手元にあるのは、そのモデルを作ったときに答えようとした問題だけが解けて、それ以外の問題には答えられないようなモデルである」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “the Austrians” というのは「オーストリア学派」とかいう訳が多いような気がしますが。。。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “The
    models were largely constructed to analyze policy is the context of a Great
    Moderation, i.e. within a fairly stable environment.”

    この “is the context of…” の “is” は “in” の間違いのような気がします。

    “a Great
    Moderation” はわざわざ大文字で表記しているので、不定冠詞による固有名詞の普通名詞化って奴ですよね。だからそれっぽく訳した方がいいと思います。”Great
    Moderation” には「大平穏期」とかいろんな訳があるようですが。

    “a fairly stable environment” の “fairly” は別に「公平」という意味はなくて、「そこそこ」とか「ある程度」とかいう意味だと思います。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

     あと、”the model” は、定冠詞がついているので、モデル一般ではなくて、前の文で言及している “the current models” を指しているので、それがわかるように訳したほうがよいのではないでしょうか。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “while there were some attempts in that
    direction” の “while” は、譲歩の副詞節を作る接続詞で、「その方向性での試みはいくつかあったが…」というニュアンスだと思います。文脈的には、”and” と “the work” の間に挿入されているので、そういう研究がないかどうか探したら、いくつかあったが、その研究は☓☓だった、という感じではないでしょうか。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “if nothing in the present is adequate”

    なぜ「…としても」という訳になったのかよくわかりませんが、ここ普通に「現在あるものがすべて不適当だった場合、われわれは過去に目を向けるようになる」みたいな感じでいいと思うんですが。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “the ones that modern theory has discovered” というフレーズが訳抜けのようです。これは直前の “the limitations of this
    framework” と同格ですから、「現代の理論によって発見されたようなフレームワークの限界」という意味でしょう。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “This model had already worried about ”

    “always” と間違えたのではないかと想像しますが、”already” なので「すでに」ですね。古典的な理論なのに現代われわれが直面しているような問題を「すでに」考えていたということでしょう。

  • http://www.gkec.info/ GkEc

    ありがとうございます。
    そんな熟語があるんですね。 http://ejje.weblio.jp/content/an+axe+to+grind なんかを見ると、「胸に一物ある」といった感じでしょうか。

  • http://www.gkec.info/ GkEc

    完全にreturnと勘違いしてました…

  • http://www.gkec.info/ GkEc

    大文字になっていたので定訳があるのかな、とググってみた結果が当初の訳です…。
    原文のタイポについて訳すときにかなり悩んだりするので数年前のポストであっても筆者にはきちんとスペルミスは訂正しておいてほしいですw

  • http://www.gkec.info/ GkEc

    whileとifって一緒の用法あるよなー、と考えながら訳してたらwhile nothing…みたいな訳し方に…。素直に訳すべきでした。

  • http://www.gkec.info/ GkEc

    長々とお付き合いいただきありがとうございました。
    ご指摘の箇所は一通り訳に反映しました。今後ともお願いしますm(_ _)m

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “we were aware of the theoretical
    developments in modern macro and what they implied about the old Keynesian model ”

    “imply” を「含む」と訳すのはどうでしょうか。「私たちは、現代マクロ経済学における理論的発展と、その発展がオールドケインジアンモデルにとって何を意味するかを知っていた」ぐらいでよいのでは。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “it did
    so within a theoretical structure that was built to be useful at times like we
    were facing”

    この “did so” は前の文の “provided guidance” のことでしょう。つまり、that 以下のような理論的枠組みの中で guidance を provide したということですよ
    ね。

    「しかも、私たちが直面していたような状況において役立つように構築された理論的枠組みの中で、指針を提供したのだ」。

    あるいは、省略形を生かすなら、

    「しかも、私たちが直面していたような状況において役立つように構築された理論的枠組みの中で、それをしたのだ」。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “Sometimes
    if didn’t, but that was no reason to ignore the answers when it did.

    この if が it の間違いというのはその通りだし、それが前の文の “that advice has any relevance” を指しているという解釈も正しいと思います。

    ただ、この訳だと最後の “when it did” の解釈が抜けていると思います。この “it did” は先の “it didn’t” に対応していて、やはり “that advice has any relevance” を指していると思います。

    つまり、

    「そのアドバイスには妥当性がないこともあったが、妥当だったときにはその答えを無視する理由は何もなかった」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “where prices depart from fundamentals”

    この “fundamentals” は金融関係の人がよく言う「ファンダメンタルズ」であって、「ファンダメンタルズ」と訳さないとかえってわからないのではないでしょいか。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “did not even envision that this could
    happen, let alone build it into their models.”

    “let alone” というのは、「~は言うまでもなく」「~はおろか」という意味の副詞節を作る接続詞でしょう。it は前の節の this と同じものを指していると思われます。つまり、

    「理論家たちは、そのような状況をモデルに組み入れることはおろか、そんなことが起こることすら想像もしなかった。」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “Markets work, they don’t break
    down”

    この現在形は、現在の状態を表しているというより、普遍的な真理を表す意味の現在形ではないでしょうか。つまり、

    「市場は常に機能する。壊れることなどない」

    ぐらいのニュアンスだと思います。

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    “using equilibrium models with
    rational agents and complete markets”

    この using 以下は、we を後ろから修飾する形容詞句ではなくて、後ろの add を修飾する副詞句的な分詞構文だと思います。つまり、

    「私たちは、合理的なエージェントと完全市場を前提とした均衡モデルを使いながら、そのモデルに~を追加することができるだろうか」

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    “add frictions to the model – e.g. sluggish
    wage and price adjustment ”

    意味的に考えると、この “sluggish
    wage” や “price adjustment” は、”the model” と同格なのではなく、”frictions” と同格なのではないでしょうか? つまり、

    「そのモデルに、硬直賃金や価格調整のような摩擦を追加する」

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    “in a way
    that allows us to approximate the actual movements in key macroeconomic
    variables of the last 40 or 50 years.”

    “approximate” は、テクニカルタームに近いので「近似する」というような訳の方がよいのではないでしょうか。

    「過去40~50年の主なマクロ経済変数の実際の動きを近似できるような方法で」

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    “what drives
    macroeconomic variables in normal times, demand-side shocks or supply-side shocks”

    この “emand-side shocks or supply-side shocks” は、Which…, A or B? という疑問文の A or B と同じで、”drives” の目的語ではなく、”what” と同格だと思います。つまり、

    「平常時は何がマクロ経済変数を動かしているのか。需要側のショックなのか、それとも、供給側のショックなのか。」

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    bullish というのは、たぶん市場の bull、bear にひっかけて言っているので、「強気」とかの方がいいような気がします。

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    “as a metric to measure the usefulness of models”

    metric って、確かに辞書にもあまりぴったりした訳が載ってないんですが、「指標」とか「尺度」みたいなニュアンスと考えていいと思います。つまり、

    「モデルの有用性を測る尺度として、予測能力を使う」

    という意味でしょう。

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    “something that often compounds tragedy when this science is not available”

    これは、直前の “contaminated water supplies after a disaster” と同格なのではないでしょうか。つまり、

    「病気の感染に関する科学は、このような科学が利用できなかった頃は悲劇をさらに悪化させることが多かった、汚染された水道の利用を避けるために役立つ」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “instead we got the “big one,” and the “buildings
    and other structures” we thought could withstand the shock all came crumbling
    down”

    この instead は前置詞ではなく単なる副詞なので、「~を期待していたが、実際には~だった」という感じだと思います。

    また、”we thought could withstand the shock” というのは、”the “buildings
    and other structures” を後ろから修飾する関係節で、”we thought the buildings
    and other structures could withstand the shock” の “the buildings
    and other structures” が関係代名詞になって前に移動した形でしょう。

    つまり、

    「金融危機に関して言えば、経済学者たちは、多数の小被害によって調整が行われると考えていたが、実際に来たのは「大地震」で、衝撃に耐えられると考えられていた「建築物や構造物」はすべて崩れ落ちてしまった。」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “It wasn’t the models,
    it was how they were used (or rather not used) that prevented us from putting
    safeguards into place.”

    これはいわゆる強調構文で、that 以下を行っているのは、”the models” ではなく、”how they were used” である、という意味でしょう。つまり、

    「私たちが建物を保護することを妨げてきたのは、モデルそのものではなく、その使われ方であった。」

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “making sure that the water is safe to drink, people have food to eat, there is a
    plan for rebuilding quickly and efficiently, etc.”

    “make sure…” には、「…を確認する」という意味と、「…が起こることを確実にする」「必ず…になるようにする」という意味があって、この場合は後者の方が適当ではないでしょうか。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

    “and we could have done a much
    better job at implementing regulatory and institutional changes that prevent or
    limit the impact of shocks”

    “could have done” なので、「よい仕事をしている」ではなく「もっとよい仕事ができたかもしれない(しかし実際にはしなかった)」というニュアンスだと思います。

  • http://www.gkec.info/ Masahiro Nishida

    ありがとうございます。訳に反映させていただきました。

  • http://www.facebook.com/people/Yushin-Hozumi/100000475013170 Yushin Hozumi

     こちらこそ、面白い記事を紹介していただいてありがとうございます。専門の経済学者さんが理論について何を考えているのがが私などにも伝わってきて勉強になりました。正月の余暇時間の活用が少しでもお役に立てばこちらとしても嬉しいです。