「人口減少の経済的帰結」 by John Maynard Keynes

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翻訳者より;
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以下は、John Maynard Keynes, “Some Economic Consequences of a Declining Population”(The Eugenics Review, vol. 29, April 1937)の訳。

 
 1937年2月16日 英国優生学会講演
 1937年4月発行『優生評論』第29号掲載

人口減少の経済的帰結 ジョン・メイナード・ケインズ

 

未来は過去に決して似ていない…という言葉は良く知られるところです。しかし一般的に言われているように、私たちの想像力と私たちの知識はとても弱過ぎて、未来の何が特に変わるのかを予想することはあまりにも難しいのです。私たちには未来がどうなるかは分かりません。それでも、生きとし生けるものとして、私たちは行動を起こすしかありません。平和と精神的な安寧に浸っている私たちは未来を見通すための手立てがあまりにも少ないということから目を背けがちです。それでも私たちはいくつかの仮説を頼りにするしかありません。その結果として私たちは、慣習というものへ訴えかけてこない知識ではなく、逆に、未来は過去に似ているとする主張のうちの典型的なものへと流されてしまいがちです。これこそが私たちが実際に取ってしまう行動なのです。私が思うにはこれは19世紀における自己満足的な風潮を支えた要素の一つであり、当時の人々は人間の振る舞いに関する哲学的な熟考によってベンサム派の奇妙な仕掛けを受け入れたのですが、別の経路による、その起こり得る限りの全ての帰結が彼らの目の前に現れるようになってきました。その経路とは一つ目は比較優位の思想の実践、二つ目は当の比較優位の思想を実行に移す際にそれに伴う形で確実と思われた事柄の実践でした。…この二つの経路の掛け合わせが引き起こした、その実行によって起こり得た限りの全ての帰結とさらに付け加えられた結果が現れたことで、私たちは何をなすべきかが分かるようになったのです。こうして、蓋然論的(確率的)なものの考え方による想像上の仕組みを用いて未来をさながら現在と同じ状態のように取り扱い計算することができるようになりました。これまで誰もこの説は採っておりません。しかし今日(こんにち)であるからこそ私たちの考えがいつの日か、いくつかのあのような偽の合理主義的な意見の如く影響を与えるようになると私は信じています。

さて私は今晩、合理的であるよりも未来がよりいっそう過去に似ていると思い込もうとする、というこの慣習が重要であることを強調したいと思います。誰も逃れることができないこの振る舞いの慣習…というのは、私が思うには、この慣習は確実な変化を予想するに値する相当な理由がある場合でさえ影響を持ち続けるものだからです。そして、おそらくですが、私たちが未来を見通すに当たり実際に手にしている大きな手がかりのうち最も際立った例は推計人口の趨勢です。人口の安定、そして私たちが数十年ものあいだ経験してきた実に激しい人口の増加に取って代わり、私たちはきわめて短いうちに人口の静止または減少に直面することになる…という未来の姿と切り離せない関係にある社会的または経済的な要因について、私たちはこれまでよりも手堅く知ることができるのです。人口の減少率がどれくらいになるかははっきりしないのですが、しかしほぼ確実なのは未来における変化は私たちがこれまで経験してきたものと比べるとかなり大きなものになるであろうということです。人口動態統計で分析される効果の面において長いけれども一定の時間の遅れがあることによって、私たちは未来に関する常識に反した知見を得ることができます。それでも未来は現在と異なるという考えが私たちの考えや振る舞いの慣習的な流儀とはあまりにも相容れないため、私たちのほとんどは実際に人口減少問題に関して行動することに対しては激しい抵抗を示してしまうものです。付け加えて申し上げますと、人口が減少へと転じることが露になる結果としていくつかの重大な社会的帰結がもたらされることが既に予言されています。しかし私が今宵特に扱う主題は、この差し迫った変化によってもたらされる一つの際立った経済的帰結に関してです。というわけで、暫くの間、皆さんがこれまでの固着した観念を捨てて未来は過去と異なるという考えを受け入れていただけるような話を、皆さんが十分に納得のゆくまでさせてもらえればと存じます。

 

人口の増加は資本財への需要に極めて重大な影響を与えます。資本財への需要…ここでは技術の変化や生活水準の改善については脇に置くこととします…の人口に対する割合が多かれ少なかれ増えるというだけではありません。景気の予想は見込み需要に基づいてよりも現状に基づいてなされることがはるかに多く、人口が増加する時代には楽観的な見方が強まりやすいのです。というのも需要は一般的に見通しを上回ることが、見通しに達しないことよりも多くなりやすいからです。さらにある不一致、これは特定の種類の資本財のある時点における過大供給の結果としてもたらされるものなのですが、こうした状態は素早く是正されます。しかし、人口が減少する時代において、これが正反対になることもまた真実と言えるのです。需要は予想されていたよりも低くなりやすく、そして過大供給の状態を是正するのは容易ではなくなってくる。この結果として悲観的な雰囲気が覆うことでしょう。そして、悲観的な見方が供給能力に影響を及ぼし続けた挙句の果てにとうとうこの悲観的な見方そのものを改め始めるようになるという事態へ至ったとしても、人口が増加から減少へ転じてもたらされる繁栄の道へ向けた最初の結果はとても悲惨なものとなるでしょう。

19世紀とそれ以降における資本財の巨大なる増加の原因を評価するに当たり、私が思うには、人口増加の影響はその他の影響と異なり重要なものとしての扱いをほとんど与えられて来ませんでした。資本財への需要はもちろん、3つの要因に依存します。…人口、生活水準、生産技術です。私が、当期の消費財を効率よく調達する方法として、その長い過程と関連深い重要性があると位置付けている生産技術によって、私の意識の中にある要因は生産期間という形で便利に描写できるようになりました。これは、大まかに言えば、労働が行われてから生産物が消費されるまでの時間間隔の加重平均です。言い換えれば資本財への需要は消費者の数、平均消費水準、平均生産期間に依存するのです。

さて、人口の増加が資本財への需要の割合を増加させることは必然と言えます。…そして発明の進歩が生活水準をどれだけ高めるかを決めるでしょう。しかし生産期間に対する発明の影響は、その時代の特徴に彩られた発明の種類に依存します。交通、住環境水準、公共サービスの改善が消費期間の増大をいくらか促したという特徴を備えていたことは19世紀の真実であったでしょう。よく知られているものとしてとても顕著な例は「ヴィクトリア朝時代の文明化」の特徴とされるものです。しかし同じことが今日においても真実であるかどうかは明らかではありません。現代における発明の多くは、規定の実績分を生産するための設備投資の量を減らす方法を見出すことのために向けられています。消費者の嗜好や生産のための技術が私たちの経験を積み重ねてきた結果として変化を速めてきたことも部分的には寄与したことにより、私たちの選好はそれほど耐久的ではない資本財の種類の方へ非常に強く向けられるようになっています。それゆえ、私は、平均生産期間を実質的に増大させるような現在における技術の変化に頼ることができるとは信じていません。利子率を可能なかぎり変更させることによる影響は別として、平均生産期間が減少してゆく場合でさえ同じかもしれません。そのうえ、平均消費水準はもしかするとそれ自体が、平均生産期間を減少させる影響を及ぼすかもしれません。というのも私たちが豊かになってゆくに従い、私たちの消費はそれを生産するに当たり平均生産期間が比較的短い品目の消費、特に対人サービスへ向かうようになるであろうからです。

さて、多くの消費者が減ってゆき、私たちが生産期間の技術の変化による有意義な伸びに頼れないなら、資本財の純増加への需要は平均生活水準の改善や利子率の低下へ完全に頼りきりになることへ追い込まれます。異なる要因が関係してくることが重大であることの道理を、私はいくつかのとても大まかな数字を使って説明したいと思います。

1860年から1913年までの丁度50年にわたる期間のことをじっくり考えてみましょう。私は技術の変化によって生産期間の長さに重大な変化があったという証拠を一つも見つけられませんでした。統計のうち実物資本の量に関するものに特殊な難しさが見受けられます。しかし私たちの手にできる統計は一産出単位を生産するために使用される資本ストックの量が幅広く変化してきたことを示してはいません。2つの最も高く産業化されたサービス、住宅建設業と農業、が古くから確立されていました。農業は比較的に重要性を伴う形で減少してゆきました。人々が所得の割合のうち非常に多くを住宅の購入のみへ充てた場合に限り、付け加えますと(第一次大)戦後については確かに多くの証拠があるのですが、私は技術の変化によって生産期間が有意議な伸びを示すことを予想したでしょう。戦前の50年間、このあいだは長い期間にわたり利子率の平均がかなり一定であったのですが、私は生産期間の長さが10パーセントを超えることはなかったであろう、と確信しています。

さて、同じ期間に英国の人口は約50パーセントほど増加し、そしてこの人口に対して英国の産業と投資はさらに大きな数値を以て供給されました。そして私は生活水準がおおむね約60パーセントほど高くなったに違いないと思っています。このように、資本財への需要が増加したことは根本的には人口の増加と生活水準の高まりに起因し、そして細かく言えば一消費単位当たりの産業化の増進に応じた類の技術の変化に起因するのです。要約として、人口の数値、これは頼りになるのですが、資本財の増加のうち約半分は人口の増加に対する供給のために引き起こされたものでした。おそらく数値はおおよそ以下のとおりです。ただしこれらの帰結はかなり大まかで、話を先へ続けるための大体の目安であることを強調しておきたいと思います。
 
  1860年 1913年
 
  100    270  …  実物資本
  100    150  …  人口
  100    160  …  生活水準
  100    110  …  生産期間

結果として、もし静止人口が生活水準の同じ程度の改善と生産期間の同じ程度の増大とを伴ったとすれば、資本ストックは実際に引き起こされた増加分の半分を少し上回る程度の増加を必要としたでしょう。さらに、住宅投資の半分近くが人口の増加により引き起こされていたあいだにおける、対外投資の実質的に高い割合もおそらく先に挙げた原因に起因したものです。

他方で平均所得の増加、家族のサイズの縮小、制度的かつ社会的な影響が、おそらく完全雇用の条件の下で国民所得のうち貯蓄へ向かってゆく割合を高めてきた、と言うことも可能ではあります。私はこれについては確信していません。なぜなら正反対の方向に作用する他の要因、特に最富裕層への課税という要因があるからです。しかし私たちは確かなことを言えると思います…そしてこれは私の主張の論拠として十分ならしめるものなのですが…今日、完全雇用の条件の下で国民所得のうち貯蓄へ向かうであろう割合は各年の国民所得のおおむね8パーセントから15パーセントの間にわたるであろうということをです。資本ストックの増大の一年当たり何パーセントが、この貯蓄率と関係しているのでしょうか。これに答えるためには、私たちはいま存在する資本ストックが国民所得の何年分で表せるかを強調しなくてはなりません。これは私たちが正確に知ることのできない数値ではありますが、大きさの位数として示すことは可能です。皆さんは、私が申し上げる答えがご自身が予想する答えとかなり違うことにおそらくお気づきになるでしょう。存在する国民資本ストックの額は約4年分の国民所得の額と等しいのです。これは言うなれば、もしわが国の一年当たり国民所得が40億ポンドのあたりにあれば、わが国の資本ストックはおそらく150億ポンドであるということです。(私はここでは対外投資を含めておりませんが、含めた数値を挙げるなら、4.5倍です。)結果として、一年当たりの国民所得における新しい投資のおおむね8パーセントから15パーセントの率は、資本ストックの一年当たり2パーセントから4パーセントの増加を意味するのです。

論拠の要点を繰り返させて下さい。私がこれまで2つの暗黙の仮定…特に、富の分配や、蓄えられた国民所得の割合に影響を及ぼす他のあらゆる要因の激しい変化が無いこと。さらにまた、平均生産期間の長さを実質的に変化させるに足りる利子率の幅広い変化が無いこと…を置いてきたことに注意してください。これら2つの仮定を取り除くために私たちは後でまた立ち返ることにしましょう。しかし、これらの仮定の上で、わが国がいま存在する組織を抱えてゆく下で、さらに繁栄と完全雇用という条件の下で、私たちはわが国の国民資産ストックの純増加をおおよそ2パーセントから4パーセントほどもたらすための需要を見つけ出さなくてはならなくなるでしょう。さらにこれは期限無く年々続くこととなることでしょう。それでは次の通り、より低い見積もり…すなわち2パーセント…を用いることにしましょう。というのも、この2パーセントが最も低い数値なら、論拠はより手堅いものとなるからです。

今に至るまで新しい資本財への需要は2つの源より流れ出でて来て、この2つはそれぞれほぼ等しい強さでした。2つを合わせたうちの、半ばを少し下回る方は人口の成長に対する需要としてまみえました。…半ばを少し上回る方は一人当たり産出を増加させる発明とより高い生活水準を可能にする改善のための需要としてまみえました。

さて、過去の経験は生活水準の年間1パーセント以上という大きな高まりの持続がまれにしか実現されなかったことを証明したと示しています。もし発明が稔り豊かなものになったとしても、それ以上に私たちの生活水準を高めることが容易とはならないのです。過去数百年のあいだにこの国で生活水準の改善が年間1パーセント進んだのは10年か20年でしょう。しかし一般的に言われているように生活水準の改善の率は毎年1パーセントをやや上回ってきたように見えるのです。

私はここで区別をいたします、皆さんご注意ください。資本財が生産物を産み出すのに以前よりも労働の量を減らす助けになるような発明と、使用される資本ストックの量の変化を最終生産物の割合の変化よりも“さらに”大きくするような発明とをです。私は前者における革新は未来においてもそう遠くない過去と同じような具合で続くのではないかと思っています。さらにこの革新は近い将来においても、私たちがこの十年を通して経験してきた最高の水準が続くのではないかとはっきり申し上げます。そして私は、こちらの側に属する発明が、完全雇用および静止人口と思われる条件の下でわが国の貯蓄の半分以上を吸収することはまずありそうにないと計算しています。しかし二番目の種類の発明はある方法または別の方法への道を切り開きます。それはまだ明らかではないのですが…ある一定の利子率と思われる状態で…発明の最終的な結果がある方法または別の方法によって一産出単位当たりの資本財を変化させるという道です。

それゆえ、結果として、長期にわたる繁栄の均衡条件を確実なものとするためにはこれから申し上げる(2つの)こと(のうちいずれか1つ)が欠かせないでしょう。“一つ目は”私たちが所得のうちから貯蓄へ充てる割合をある程度小さくする方向へ私たちの制度や富の分配を変えることです。“二つ目は”資本財が産出へ振り向けられる割合がさらに広がることで使われるようになるような技術または消費の方向の非常に幅広い変化が利益をもたらすのに十分となるまで利子率を下げることです。または、もちろん、私たちが賢者たり得るのであれば、両方の政策をある程度まで追い求めることは可能ではありましょう。

 

一人当たりの生産要素が増える(国土の姿について古い作家たちが主に思い描いてきたこと)ほど生活水準に多大な恩恵をもたらすに違いないという見方と、人口の成長は人間の生活水準が高まることを抑えてしまうから悲惨であったという見方は、どのように関連して古いマルサス主義者の説を生んだのでしょうか。一見すると、私がこの古い説に異を唱え私が主張の論拠としてきたこととは反対に、人口が減少する局面では繁栄を保つようになるよりもそれ以前に多大な困難をもたらすようになってしまうように思われるかもしれません。

ある意味ではこれは、私が申し上げていることの正しい解説となっています。しかしもし旧マルサス主義者が今も存在しているのなら、私が彼らの本質的な論旨を否定していると彼らに思われないようにしなければなりません。紛れもなく人口の静止は生活水準が高まることを促します。…ただしこれはある条件…特に人口の静止が可能となる生産要素と消費の増加が、然るべき場合によって実際に引き起こされるという条件…の下でのみ可能となることです。というのも私たちは少なくともマルサス主義者の言うものと同じくらい凶暴な悪魔がすぐそこにいることを学んだからです…有効需要の毀損により現れる、言わば失業の悪魔です。おそらく私たちはこの悪魔もマルサスの悪魔と呼んで差し支えないでしょう、というのもマルサスその人が初めてこの悪魔について語ったからです。若きマルサスが人口の実態について身の回りの事象を眺め問題を合理的に説明しようとして頭を悩ませたために、後年のマルサスは…幸運ではないことに、残りの分野における自身の影響が力を持つ限りは…失業の実態について身の回りの事象を眺め問題を合理的に説明しようと頭を悩ませることはもはやありませんでした。さて、マルサスの悪魔Pが鎖につながれていると、マルサスの悪魔Uが解き放たれやすくなります。人口の悪魔Pが鎖につながれているあいだは、私たちは一つの脅威から自由になれます。しかし私たちは非雇用資源の悪魔Uにそれ以前よりもますます晒されるようになってしまうのです。

静止人口の下では、生産期間の長さを有益な方向へ実質的に変化させるために、繁栄と治安を維持することはより平等な所得の分配と利子率の抑え付けによって消費を増加させる政策に完全に依存することになる、と私は訴えます。もし明確な認識と固い決意を以てこれらの政策を行わなければ疑いもなく、一方の悪魔が鎖につながれていることによって私たちが当たり前のものとして得ている恩恵は奪われ、さらには、おそらく他のものまで奪われてしまう耐え難い苦しみを味わうことになるでしょう。

それでもなお多くの社会的および政治的な勢力が必要な政策の変更に反対することでしょう。私たちが段階を踏むことができず政策の変更を行えないということはじゅうぶん考えられます。私たちは過去から学び、政策の変更を行うに当たって妥協する態度へ改めるであろうことを予め見越しておかなくてはなりません。もし資本家階級がより平等な所得の分配を拒み、19世紀に平均的であった数値にだいたい近い銀行預金利子率、投資利益率を維持することを強いてくる(ところで、19世紀に平均的であった銀行預金利子率、投資利益率は今日のものより少し“低い”です。)とすれば、不完全雇用の慢性的な傾向は必ず、活力を奪い社会のありかたを壊す結末をもたらします。他方で、もし時代の精神と今ここにある限りの啓蒙の精神に教え諭され導かれるのであれば、…私がそうなってほしいと信じるように…私たちの考えに従い富の蓄積へ向けて段階的に発展し、人口の静止または減少という状況に適したものになり、恐らく、私たちは自由が維持され現在の制度が自律性を保つ…という最も望ましい世のありかたを両方とも手にすることができます。このあいだ、資本家階級はさらなる“信号の故障”によって、資本蓄積および彼らを社会の仕組みの中でそのふさわしい立場へ就かせる役割を果たす報酬の重要さが減ってゆくに従い、段階的に安楽死してゆきます。

あまりにも急激な人口の減少は明らかに深刻な問題を引き起こし、このような事態の下で、または、このような事態における脅威の下で、予防の措置がとられなければならない理由は今宵の議論が取り扱っている範囲ではないところに強い根拠があります。しかし人口の静止または緩やかな減少は、もし私たちが必要な力と賢さを働かせれば、生活水準を然るべきところまで引き上げることができるかもしれません。このあいだ、いま生活の伝統的なありかたを失っている人々に起きていることを見届けているからには、こうした生活の伝統的なありかたのうちいくつかの部分を保つこともできるかもしれません。

それゆえ、最後に要約いたしますと、私の主張は旧マルサス主義者による結論から逸(そ)れるものではありません。私はただ、一方の悪魔が鎖につながれているときにもし私たちが注意を怠ると、もう一方の静かなる凶暴な、そして、さらに手に負えない悪魔を解き放つのみである、ということを皆さんへ戒めとして申し上げたい次第でございます。

 
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翻訳に協力していただいた方々(あいうえお順、敬称略)
 
トミオ@tomyuo
hicksian@hicksian_2012
松尾匡

  • 匡 松尾

    大変有意義な仕事、おつかれさまです。
     恥ずかしながら初めてちゃんと読みました。拙著『はだかの王様…』の序文以来、延々と言ってきたことと同じ内容ですが、ケインズもこんなにはっきり言っていたとなると心強いです。
     さて、現行の貯蓄率が、完全雇用の持続と整合するには高すぎるというのが、一つの論旨なので、二節目、数値表の次の次の段落にある貯蓄率を示す表現は、次のように変えた方が主旨がわかりやすくなると思います。

    「完全雇用の状態を続けやすくしながら国民所得の割合を高めてきた」
    →「完全雇用の条件下での国民所得のうち貯蓄に向かうことになる割合を高めてきた」

    「完全雇用の状態において今日蓄えられる国民所得の割合」
    →「今日、完全雇用の条件下では国民所得のうち貯蓄に向かうであろう割合」

    「この国民所得の蓄えられる率」→「この貯蓄率」でいいのでは?

    ご検討下さい。

    松尾匡

  • http://twitter.com/macron_2 マクロン2

    松尾様

    マクロンです。ご指摘ありがとうございます。さっそく訂正させていただきました。

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