「中央銀行についての大嘘」by Joseph E. Stiglitz

以下の文は、Joseph E. Stiglitz,”Big Lies about Central Banking“の翻訳になります。2003年の記事ですが内容はタイムリーなものです。誤字・誤訳の指摘はコメント欄にお願いします。


 もっぱら物価安定に焦点を当てた独立性ある中央銀行というものが「経済改革」のマントラの中心になっている。他の多くの格言と同じように、それは何回も繰り替えされることによって、信じられていくようになる。だが、それが中央銀行家からのものであれ、ずぶとい断言が研究や分析の代用品になるわけではない。

研究では、中央銀行はインフレに焦点を当てたほうが、インフレをコントロールするのに上手く行くことを示している。だが、インフレをコントロールすることだけが全てではない。それは失業率を低め、より早く、より安定した成長を達成するための一つの手段に過ぎない。

それらこそ重要な真の変数であり、もっぱら物価の安定に焦点を置いた独立した中央銀行家がこれらの本質的な点に関して上手くやれるとする証拠はほとんどない。2001年に私とノーベル賞を共同受賞したジョージ・アカロフと彼の同僚はゼロ以上になる最適なインフレ率が存在すると力強く論じている。だから、無慈悲に物価の安定を追及してしまうことは実際には経済成長や幸福にとって害になる。最近の研究では、物価の安定に目標を置くことで、インフレと失業のトレードオフが小さくなるという主張ですら疑問が呈されている。

インフレに焦点を合わせることは、長いインフレの歴史を持つ国々では意味があるかもしれないが、日本などそれ以外の国では意味がない。アメリカの中央銀行である連邦準備銀行は物価の安定だけを保証するのではなく、経済成長と完全雇用を促進する責務も負っている。アメリカでは、ヨーロッパ中央銀行(ECB)のような狭い責務を採用しないことに広範なコンセンサスがある。今日、ヨーロッパの成長が低迷しているのは、ECBが景気回復を促進することもなく、インフレという一つの責務に焦点を当てるよう制限されているからだ。

その制度的仕組みから利益を受ける専門家や金融市場関係者などは、独立した中央銀行の美徳と金融政策を政治的駆け引きの枠外に置かれた技術的な事柄として扱う必要性を、多くの国々に納得させるのに目覚しい役割を果たしてきた。これは中央銀行家のやることが、例えば支払い決算のソフトウェアを選ぶようなものだけであるのならそうかもしれない。

だが、中央銀行は、経済成長や失業率を含む社会の全ての面に影響を与える決定をしている。そこにはトレードオフがあるのだから、その決断を下すのは政治的なプロセスの一部としてのみ可能なことだ。

長期的にはトレードオフなどないという人もいる。だが、ケインズも言ったように、長期的には我々はみな死んでいる。たとえ、インフレに火をつけることなく臨界点以下に失業を下げることが不可能だとしても、その臨界点がどこかについては不確実性がある。それゆえに、リスクは避けられない:金融政策をあまりにも緩和してしまうことには、インフレの危険性がある。それをあまりにも引き締めてしまうと、無益な失業を生み出す可能性がある。どちらであれ、それにより苦しむ人々がいる。

1990年代、アメリカの経済成長が急上昇している間、クリントン政権は、社会的利益―福祉の役割の低下や暴力事件の減少といった――を直接的な経済的利益に加えた場合、失業率を押し下げる危険を冒す価値があると考えた。それとは対照的に、IMFは金融政策を引き締めるよう推奨したが、それはIMFが失業のコストを過小に見積もり、付随的な社会的利益を減少させることには見たところまったく評価しない一方で、潜在的なインフレのコストを過大に見積もっていたからだ。

クリントン政権の経済諮問委員会の経済分析は正しかったことが明らかになっている。IMF(そしてFRB)のモデルは間違っていた。アメリカはインフレを引き起こすことなく、失業率の大幅な減少を成し遂げた――最終的には失業率は4%以下に下がった。

だが、それがポイントなのではない。ポイントは、確実なことは誰にも言えないということだ。予測されたリスクは常に避けられない。そのことによる負担を誰が負うかは政策によって異なるものになるので、その決断を下すのを中央銀行の専門的技術者に委ねることはできない――少なくとも、そうすべきではない。民主主義と矛盾しない中央銀行やその他意思決定機関の独立性の度合いについては正当な議論があるものの、そこでなされる決定によって生活に影響を受ける人々の考えがそれを決める過程で取り入れられるべきだ。

一例を挙げれば、中央銀行が過度に引き締め政策をとることで多くが損失を被ってしまう労働者は会議で席を持っていない。だが、金融市場関係者――失業からはほとんど損失を受けないが、インフレの悪影響を受ける――には決まって発言権がある。だが、金融市場関係者が技術的適任性に関して独占権を持っているわけでは全くない。

実際、金融界の多くの人はマクロ経済的システムの入り組んだ作用についてほとんど理解していない――そのことは彼らがマクロ経済を操作しようとした時しばしば間違いを犯すことからも証明されている。例えば、1945年以来、ほとんどのアメリカの景気後退は、FRBがブレーキを踏みすぎたために起こっている。同様に、1970年代後期と1980年代早期にいくつかの中央銀行が熱情を持ってマネタリズムを採用したが、根底にある理論の信用を損ねる統計的証拠が積み上がってしまうことになった。

共通通貨のメリットがなんであれ、ユーロを採用することについて協議したヨーロッパの人々はEUの将来を、その欠点がどんどん明らかになりつつある制度的仕組みと結びつけることがどういうことか考えるべきだった。同様に、発展途上国は中央銀行の独立性のことだけを考えるのではなく、中央銀行の責務や代表性についても考えるべきだ。彼らは経済的効率性についての関心と民主的な説明責任とのバランスをとる必要がある。

多くの新生民主主義国家の市民は困惑している。最初、新たな体制の美徳が賞賛されるが、後になって、彼らが最も気にしているマクロ経済政策の決定に関しては民主主義のプロセスに任せるには重要すぎるのだと言われてしまう。市民たちはポピュリズム(人々の意思という意味だろうか?)の危険性について警告を受けることになる。

安易な答えは存在しない。だが、あまりにも多くの国で、その代替案について民主的な議論すら行われていない。