「クルーグマンがマーケットマネタリズムを少し理解しつつある」 by Scott Sumner

スコット・サムナーのブログエントリ ”Paul Krugman is gaining a better understanding of market monetarism” (13. October 2011) 


 

クルーグマンがこう書いている。 

ところで疑似マネタリストたち— QMsっていうの? —は自分たちの主張をほとんど補強してきてはいないようだ。Fedは望んだ名目GDPを簡単かつ単純に達成できると彼らは主張してきたものだ。今や彼らは程度の差こそあれ、Fedには経済に対する直接的な牽引力はほとんどないものの期待を変えれば偉大なことができるというところまで譲歩している。これは僕のもともとの日本についての見方とほとんど近い。 

けれども肝心の期待を変えるのは難しい。特にFedが(a)右派からの中傷に直面していたり(b)内部に多くの金融緊縮パラノイアを抱えていたりするときには。 

我々はもちろん常に期待に主眼を置いてきた。だからこそマーケット・マネタリストと呼ばれたりする。私は2009年のクルーグマンへの公開書簡(訳注:himaginary氏による紹介)で、QE、IORの引下げ、NGDP目標、水準目標が必要だと論じた。この見方で今も変わらない。クルーグマンが我々の方が彼の方向へと意見を変えたと考えるとしたら、それは彼が今まで我々の言うことを本当には理解していなかったからだ。考えてみれば彼が我々の主張を理解していなかった証拠はたくさんあった(訳注:その翻訳周辺の話題)。 

公平を期して言えばマーケット・マネタリストはQE2を支持してきたが、それはNGDP目標や水準目標よりも政治的に実行可能そうに思えたからだった。物価水準目標よりさえも。だからチョット見では我々がQE2を最適政策だと考えたように受け取られたかもしれない。クルーグマンもQE2を支持したのだが。 

私がずっとクルーグマンに同意できないのは非常に微妙な問題領域についてだ。彼は日本は期待の「罠」の例だと見ているが、私は単に誤った政策目標、つまり低すぎるインフレ目標を持つ中央銀行の問題と見ている。中央銀行のコントロール外からの力によって「罠にはまった」のではなく。クルーグマンはインフレ期待が必要だと考える。私は高いNGDP成長期待が必要だと考える(4%に近いインフレ率はいらない)。彼は金融刺激は実質金利を伝達メカニズムとして作用すると考えるが、私は金利はある種の附帯現象に過ぎず、長期的にNGDPを動かすのはむしろ超過現金収支メカニズム(ホットポテト効果)であり、短期的には将来にNGDPが増加するという期待が現時点の資産価格と総需要を動かすと考える。この問題については他のマーケットマネタリスト達も明らかにさまざまな意見を持っている。 

大事なのは、われわれが常に一致している論点である。 

1. 両者とも、需要刺激がもっと必要だと考えている。 

2.両者とも、一時的な貨幣注入は役に立たず、貨幣量は信頼できる政策指標ではないと考えている。 

3. 両者とも、カギになるのは将来の金融刺激に対する期待を引き上げることだと考えている。 

4.両者とも、QE2に効果があったとすれば、その一部はおそらくFedの将来の政策への意向についてのシグナルを送ることによってだったと考えている(と思う)。 

5.両者とも、大恐慌についてのガウティ・エガートソンの仕事(AER2008)を気に入っている。クルーグマンが私を期待仮説についての新参者だと思っているなら、ガウティが2008で引用した私の三本の論文を見るといい。そこでこう論じた。Fedの1932年の公開市場買付は失敗だった(フリードマンとシュワルツの主張とは逆に)。その理由はその買付が金本位制の制約のために一時的なものになると見なされたからだった。 

最後のポイント。クルーグマンとマーケットマネタリストの間では、ゼロ制約の下での貨幣供給の思考実験に対するアプローチの仕方に違いがある。彼は増加は一時的と見なされると考え、我々はしばしば恒久的だと受け取る。こうして、恒久的な貨幣注入は緩和的であるとクルーグマンが認めたとしても論争はすれ違いに終わる。我々の仮説の陣営では物価水準への影響を考えるときに、標準的な貨幣数量モデルにより恒久的で一回だけの貨幣供給の増加を一般に仮定する。なぜそうするかはアーヴィング・フィッシャーやフリードマンが、もしもFedがマネーサプライを二倍にし一年後に元に戻す計画を立てたらどう反応するかを考えればわかる。果たしてフィッシャーとフリードマンは、住宅価格は二倍になるが12か月後に元に戻ると予測しただろうか。明らかにそれはない。一時的な貨幣注入と恒久的なそれを区別することの重要性はフィッシャーもフリードマンも完全に理解していただろう。そしてクルーグマンの1998年論文は、その区別が実際にどれだけ重要かを示すという偉大な貢献を加えたのだ。 

ところでクルーグマンが論じているのを見たことがないある件について。期待は単にゼロ制約の時だけに重要なのではなく、いつも重要である。もし金利が5%の時に突然Fedが、「直ちに貨幣供給を二倍にするが一年後に元に戻す」とアナウンスしてもほとんど影響はない。このように期待のアプローチとは、単にゼロ制約下における素朴貨幣数量説への挑戦に過ぎないものではない。期待は常にとても重要なのだ。ではゼロ制約のときに問題が深刻になるのはなぜか?ニック・ロウはゼロ制約の下ではFedは言葉が不自由になると指摘した。金利がプラスである限り、Fedは短期金利を調整することで将来の金融政策の意向についてのシグナルを出すことができる。ひとたび金利がゼロになると、Fedはその政策の意向について大衆とコミュニケートするための方法がわからなくなり、物価水準は係留を離れて目的無くさまよう。少なくともFedが将来の政策意向についてコミュニケートするための他の道具(QEなど)を発見するまでは。