デフレを防ぐために: 90年代の日本の経験からの教訓

担当:rezev_hikaru


IV デフレに向かう中での金融政策

本節では経済の減速に対する日本の金融政策の対応を概観する。後述するように、政策担当者と市場関係者が抱いていた日本経済についての見通しという点から、91年から95年に行われた金融緩和は不合理とも明らかに不適切とも考えられていなかった。 明らかに、日本銀行は90年代の長期不況を予想していなかった。そして、その10年間に数回にわたって日銀は空前の金融緩和を行ったと信じていた。しかしながら当時経済が直面していた非対称的なリスク—特に、デフレのリスクとそれに伴って金利がゼロ下限を打つ可能性—に対してこの当時の金融政策の枠組みはこれ以上の緩和余地を持たなかった。ある期間での平均としてのゼロインフレは1デフレ期間とインフレ期間が交互に訪れることをしばしば意味するにも関わらず、日銀はゼロインフレが継続する見通しに満足していたようだ。2

ついにリスクは現実のものとなり、景気後退から経済を引き上げるための伝統的金融政策の力は著しく失われた。 この期間のいかなる金融政策の有効性も金融セクターの脆弱性という逆風のため阻害された可能性がある。しかし、より協調的な金融政策をとっていれば、その効果はそれほど無効にならなかっただろう。

IV.1. デフレに向かう中で金融政策の余地がなかったのか?

日本の金融政策の展開:1990年から1995年

1990年の初頭に始まった株価の急激な反落にもかかわらず、不動産価格の上昇が続き、生産が潜在能力を未だ上回っていたため、その年を通じて日銀は緊縮政策を継続した。不動産価格が下落し始め、経済成長率が潜在成長率を下回り始めたすぐ後の1991年夏から日銀は金融政策を緩和に転じた。 公定歩合は(II.2)6%から7回にわたって1993年9月3にかけて1.75%まで引き下げられた。オーバーナイトコールレートに至っては1991年の前半の8%強から、1993年の終わりまでに2~2.5%程度にまで低下するといった顕著な減少を記録した4。同じ時期、10年もの国債のイールドは6.75%から3%へ低下した。

回復の兆しが見え始めた1994年を通じて日銀はその政策スタンスを変わらず維持した。1994年5月、日銀(pp32-33)(日本銀行調査季報)は”日本の経済成長は、それまでの通貨・財政金融政策の刺激的効果の浸透や資本ストック調整が進んだことを背景に、明らかに下げ止まった”とし、11月には総ての支出分野における力強さや、およびそれに反応して長期金利がはっきり上昇していることから”徐々に回復している”とした5

1995年初頭の間、兵庫県南部地震の影響、円のさらなる急騰、株価低迷による新たな不況、などいくつかの副作用によって駆け出しの回復が危険にさらされた。 日銀はそれに対応するため、4月に公定歩合を75ベーシスポイント引き下げ、また9月はじめには50ベーシスポイント切り下げ、0.5%にまで引き下げた6 。コールレートはこれと並行して下落し、9月にはやはり0.5%に到達、1999年に実質ゼロに下落するまでそのままだった。

実質金利に何が起きたか?

この期間名目短期は大きく下落したが、このことによって大きく刺激できたのは、実質金利を同じく下落させたことのみだった。Exhibit IV.1 の一番上のグラフは名目コールレートと二種類の方法で名目金利を実質化(デフレート)している。第一の方法はは名目利子率を直前12ヶ月におけるCPIインフレ率を使って実質化(デフレート)したもの(t/t-12)、第二の方法は、直後12ヶ月の期間のCPIを用いたものである。(t+12/t)1991年から1995年中期にかけて、名目コールレートは約7.5%下落。どちらの方法でも実際のコールレートの減少が顕著で、翌12ヶ月(t+12/t)のインフレ率5.5%に基づいて実際のコールレートは推移し、過去12ヶ月(t-12/t)の約3.5%に基づいて実質金利が現れることである7

この日銀の政策は確かに実質金利を下げたが、幾つかの因子がこの引き下げによる刺激効果を一部相殺していたようである。第一に日本の生産性や生産性成長や潜在産出成長が減少し、均衡実質金利が低下された可能性がある。第二に、持続的な円高は金利引き下げを一部相殺していただろう。 第三に、以下に論じるように、金融システムにおける諸問題の進行が、金融政策の経済に寄与するチャネルを歪めた可能性がある。

  1. 18日銀総裁速水は、”日銀の政策は物価の安定を求めていると述べており、インフレやデフレはない…”(ロイター、1998 []
  2. また、日銀関係者は頻繁に、短期金利はゼロに近いと不快感を表明する。その異常さは同様に、より高い金利環境を持続されないことは融資のスケジュールを変更する企業や銀行のインセンティブの減少要因となっている可能性がある。副総裁山口氏は”決定的な金融緩和、アクティブな介入は、日本のデフレや金融恐慌回避に疑いがあり、日本銀行は金融システムをサポートしています。一方、これらの政策決定は、日本の金融期間の構造改革への取り組みを湿らせた可能性があります”(山口、1999)速水総裁速水総裁は、いくつかの場面で、低金利が企業の一部について改革を遅らせていたことと、”モラルハザード” を奨励する懸念を表明している。 (共同通信、2000年、ローリー、2000年)投資家たちは、政策担当者がゼロ金利の底から金利を移動することにに熱心であったことに対し、長期金利の上昇になることは間違いないと感じていた。 []
  3. 当時これらのアクションは、歴史的と見られていた。たとえば、1993年12月の三重野日銀総裁は、 “1.75パーセントの現在の公定歩合の引き下げは日本の111年の歴史の中で最も低いレベルである。” []
  4. 1995年3月に日銀は、その主要政策金利の無担保コールマネーレートを採用し、短期金融市場の有価証券の保有を増加、その基でコールマネーレートや公定歩合の維持を行った。これより以前、銀行への直接融資はより重要であったしコールマネーのレートは、通常引き下げ率よりも高かった。 []
  5. 日本銀行調査季報、1994年11月、ページ14。 日本の長期金利は、1994年に連邦準備制度理事会の引き締めサイクルの開始や引き続く長期金利の世界的な上昇に呼応している可能性があります。 []
  6. これらの行動は歴史的と見られ、1995年11月 福井副総裁は”引き下げは前例のないレベルであった”と述べている。彼は主要工業国の経験の中で1%は最低レートであると指摘した。(すなわち、1930年代、スイス1970年代のアメリカ)。(福井、1996) []
  7. しかしながらこのことは1994年から1995年初頭のように、日銀の政策金利が一定で、インフレ率の低下により実質金利が微増であることを考慮しておく必要がある []
  • http://twitter.com/orange7246 しんべー

    皆で翻訳してたのはこれだったのか。興味深い資料。必読。

  • http://www.facebook.com/nguyenhongkimngoc Nguyen Hong Kim Ngoc

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