「「労働の限界生産物ゼロ」仮説(ZMP仮説)」 by Tyler Cowen

以下は、Tyler Cowen, “Zero marginal product workers“(Marginal Revolution, July 19, 2010)の訳。このエントリーに対するサムナーの反応はこちら翻訳)、クルーグマンの反応はこちら翻訳)。


「労働の限界生産物はゼロかもしれない」という私の見解に対して、マット・イグレシアス(Matt Yglesias)が「それは信じがたい話だ」と述べている。彼のこの反応を見て私は驚かされた。覚えておいてほしい、生産は危機以前の水準にまで回復したが、一方で雇用は危機以前の水準にまで回復しなかった、という事実を。この事実が意味していることは、今や、危機以前よりも少ない労働者によって危機以前と同水準の生産が行われている、ということである。レイオフされた労働者の限界生産物を測るにはどうしたらよいだろうか? 私であれば、それ(=レイオフされた労働者の限界生産物)はゼロであろう、というところから議論を始めるだろう。(危機以前の水準にまで雇用が回復することなしに;訳者挿入)危機以前の水準にまで生産が回復したことが労働の限界生産物ゼロ仮説(訳注;以下、ZMP(Zero Marginal Product)仮説、と表記)を支持する証拠ではないとしたら、他に何が証拠になるというのであろうか? 仮に私が会社を経営しており、10人の従業員の首を切ったとする。その際に生産水準が低下することなく以前の水準のままに維持されたとすれば、会社を経営している立場としては、首を切られた従業員は果たして何かしら有益なものを生産していたのだろうか、と問うことから出発するのではないだろうか?

他の事情が一定ではない、ということは確かである。しかし、実際に生じた変化はどちらかと言えばZMP仮説に好都合なものである。この間これといった技術上の躍進(technological breakthrough)は見られなかったし、何かしら変化したものとしては、一連の不透明な規制政策に起因する不確実性や稚拙な金融政策といった事情を挙げることができよう。しかし依然として、レイオフされた労働者なしに危機以前と同様の生産水準を維持することが可能であることに変わりはない。この点については、「労働保蔵」(”labor hoarding” )の現象について考えてみればよいだろう。ただし、労働の保蔵がない「労働保蔵」ということになるが。

ZMP仮説に依らずに、寡占モデルに基づいて「労働者は何かしらのものを生産することが可能である[1] が、需要不足のために企業は生産を拡大したがらず、その結果として雇用が増えないのだ」と主張する向きがあるかもしれない。しかしながら、寡占モデルによっては、生産が危機以前の水準にまで回復し、企業利潤が高水準を記録している事実がうまく説明されるようには思われない。また、今現在企業は多額の内部資金を抱えているので、「企業が流動性制約に直面していることが原因で失業者の再雇用がすすまないのだ」と主張することも困難である。

景気後退に関する事実の中で目につくのは、教育水準の高い労働者の失業率は極めて低い一方で、高校卒業資格を持たない教育水準の低い労働者の失業率は約16%近くに上る、という事実である(所得レベル別でみると、所得水準下位10%(第1十分位)のグループの失業率は30%を超えている一方で、所得水準上位10%(第10十分位)のグループの失業率は3%である。)。教育レベル別の失業率に関するこの事実はZMP仮説と整合的であるが、一方でアナリスト諸氏が現下の失業現象を説明するものとして持ち出してくる(ZMP仮説以外の)自分好みの仮説が果たして(教育レベル別の失業率に関する)この事実をうまく説明するかどうかを検討している様子はあまり見られない。

ギャレット・ジョーンズ(Garett Jones)は、多くの失業者は潜在的には生産的であるが、現時点において企業は将来的な生産性の改善に向けて投資を行おうとするインセンティブを持っていない、と主張している。ジョーンズの主張によれば、労働者の限界生産物がゼロであるように見えるのは、労働者の限界生産物が現時点ではなく将来時点において生み出されるからにすぎない、ということになる。ジョーンズの仮説に基づいて未熟練労働者の失業率が(他の労働者と比べて)これほどまでに高い水準にある事実をうまく説明することができるかどうかははっきりしないものの(今後将来的に見て、未熟練労働者が重要なcapability-builderということになるのであろうか? はたしてどうなのか、私にはそこまではっきりしたことは言えない。)、彼の仮説は(今のアメリカの失業現象に関する)事実の一面を捉えているとは思う。

長期失業者の内訳に関するデータ(もちろん、失業者全体の内訳とは異なっている)もまた興味深い事実を示している。大学で教育を受けたことのある年齢の高い労働者は失業するとかなり長期間にわたって失業プールにとどまっており、さらに、年齢の高い労働者のグループでは、教育水準が高くなるほど平均的な失業期間も長くなるようである。この事実は、「再計算」(”recalculation”)あるいはサーチ活動が続いているためなのであろうか、それとも、教育水準が高く年齢の高い労働者が賭けるたびにルーレットでゼロが出るためなのだろうか? おそらくどちらの力も働いているのであろう。お望みならば、これら長期失業の一部は雇用における年齢差別の結果であり、限界生産物ゼロを「認識上の限界生産物ゼロ」(”perceived zero marginal product”)[2] と言い換えてもよいであろう。

一体どの仮説がこの定型化された事実(stylized fact)、つまりは、教育水準の低い労働者の間では短期的な失業が多く、一方で長期的な失業者のうち不釣り合いに大きな部分を年齢が高く教育水準の高い労働者が占める事実、を予測するであろうか? この定型化された事実は、ZMP仮説と組み合わされたサーチ理論や再計算理論と整合的であるように見える。総需要の変動に基づいて失業の説明を試みる理論はこの定型化された事実に合致する予測を生み出すであろうか? 少なくとも実物的なショック(real shocks)と組み合わされない限り、総需要の変動に基づく理論はこの定型化された事実と整合的ではない(=つまりは、総需要の変動のみに基づく理論ではこの定型化された事実を説明することはできない)と個人的には判断するところである。

ZMP仮説は「労働者の限界生産物が永遠にゼロのままである」ということまで要求するものでは一切ない。経済全体が今以上にもっと急速に拡大したとすれば(そのような時がいつやってくることだろうか?)、それに伴って質の低い労働者の価値も速やかに急上昇することはあり得ることである。あなたが新たにビル事業に乗り出しつつある時に、突然追加的にもう一人の管理人が必要となるかもしれない。この新たな状況の下では、この管理人は(訳者挿入;限界生産物がゼロからプラスに上昇した)より生産的な労働者ということになるのである。

ZMP仮説を「手の打ちようがない地球のくず」(”hopeless dregs of the earth”)といった見方と結びつけて理解する向きがあるかもしれないが、両者は必ずしも同じものではない。というのも、何らかの固定的な生産要素と結びついた(生産活動における生産要素間での)補完性(Complementarity)もまた、労働の限界生産物がゼロあるいはほぼゼロとなるような事態をもたらし得るからである(生産要素間の補完性をめぐる議論の中で「過剰設備(あるいは余剰生産能力)」(”excess capacity” )といったフレーズが使われるのを目にすることがあることだろう。ただ、「過剰設備」といった概念は(生産要素間の補完性に関する議論よりは)上で触れた寡占モデルとの相性がいい概念ではあるが)。「地球のくず」バージョンのZMP仮説は悲観的な展望を示すものであるが、補完性バージョンのZMP仮説は、生産要素間の相互作用が一たび好転に向かえば、雇用の急速な回復が見られるだろうことを予測するものであるから、その意味で極めて楽観的な展望を示すものであると理解することができる。

「地球のくず」バージョンのZMP仮説と「補完性」バージョンのZMP仮説とは、それぞれが提言する政策対応の内容の面においても違いがある。「地球のくず」バージョンからは、絶望(hopelessness)[3] 、あるいは、労働者に対する数々の再訓練(職業訓練)や継続的な再就職支援といった政策対応が引き出される一方で、「補完性」バージョンからは(個々の生産要素がバラバラに孤立した状態を放置するのではなく)どうしたら生産要素間における正の補完性をもっと速やかに生み出すことができるであろうか、といった問題意識が引き出されることになる。生産要素の中には経営上の管理能力(managerial oversight)のように固定的な生産要素が存在しているが、企業家(entrepreneurs)はこういった固定的な生産要素を懸命に使用しようするインセンティブを持たないかもしれない。どのようにしたらこういった固定的な生産要素の複製を一層促したりその伸縮性をもっと高めたりすることができるであろうか?

  1. 訳注;労働者の限界生産物はゼロではない []
  2. 訳注;「年配者の限界生産物はゼロである」との認識・信念が事実かどうかにかかわらず広く共有される、ということ []
  3. 訳注;絶望=政策的にどうこうできる類の問題ではない→政策的には(何もできないが故に)何もしない []