わがロールモデル、ジョージ・ウォーレン by Scott Sumner

スコット・サムナーのブログ、TheMoneyIllusion の初期(2009年2月くらい)の重要エントリ(本人がそうおっしゃってます)をぼちぼち紹介しています。今回は、My Role Model, George Warren(February 28th, 2009)を紹介します。日付に注意願います。サムナー先生の人物像がかなりわかってきます。ayakkaさんに多くの助言をいただきました(感謝)。

金融オタクは1世紀に2回正しい。1933年と今日だ。」の真意はすべてここに!


金融理論については、商品本位制と兌換貨幣制のどちらを研究しても多くを学ぶことができる。しかし一番良い事例は、システムがある商品本位制から別の枠組みに移行する期間にあるだろう。今回のこの長いエントリは、昨今の問題から遠く離れているように見えるが最後に重要な教訓について論じる。1933年、つまり金本位制 (1879-1933)から次のシステム (1934-68)へ移行した年について見ていこう。

まず1933年の米国の物価水準は1770年代とほとんど同じくらいであった(今は少なくともその20倍である)。どうしてか?物価水準は貨幣価値の変化に反比例して変わるが、金の価値は長期では劇的には変化しないからである。ただし短期では、金の需給ショックが物価水準を不安定にすることもある。

ロバート・マンデルは、第一次大戦後の金平価引き下げが大恐慌をもたらしたと論じた。(マンデルの洞察に基づき、彼の教え子のクラーク・ジョンソンは戦間期の金をテーマに素晴らしい話を書いている)。ヨーロッパでは第一次大戦中の金需要の低迷で、物価指数がトレンドをはるかに超えて上昇した。この上昇は1920-21の急激なデフレによって一部は元に戻ったが、1929年になっても物価は戦前の水準を上回っていた。ヨーロッパ各国の中央銀行は、戦争で枯渇した金の在庫を再構築しようとしていたため不安定な状況だった。金は需要増で値上がりし、デフレ的な状況だったのである。

次に何が起こったかは皆が知っている(正確に知られてはいない、これは別のエントリで説明する予定)ので、1933年に飛ぶ。三月にFDR(フランクリン・D・ローズヴェルト)が政権に就き、卸売物価を恐慌以前の水準に戻すと公約した。彼が採用した幾つかの手法の中で最も効果的だったのは、アーヴィング・フィッシャーの「ドル補正計画」に準じた方法である。フィッシャーの計画は物価水準が1%下落するごとに金平価を1%切り上げるというものだった。無名の農業経済学者のジョージ・ウォーレンはこの計画の大ファンで、さまざまな資料を添えてFDRにこれを売り込んだ。

そしてこの方法はうまく行った。

この政策は初め米国史上の他のどのマクロ経済政策よりもよく働いた。ただし初期の成功はほとんど偶然であった。単にドル切り下げの結果が出ただけでフィッシャーの計画を実行したからではなかった。いずれにしても物価は直ちに急騰した。3月から7月にかけて工業生産は57%上昇し、過去3.5年で失ったうちの半分以上を取り戻した。7月末、FDRはカルテルを是認する政策を取ることに決め、賃金を大幅に引き上げ(NIRA:全国産業復興法)ると工業生産は急落し始めた。FDRは10月末までに次のインフレ策が必要だと考え、ウォーレンに案を求めた。そして彼らは、物価水準を引き上げるため政府による金の購入価格を継続的に引き上げると決めた。

米国はいつか金本位制に復帰するだろうという予測が広がった。1933年が始まる前の金価格は1オンス20.67ドルだったが、多くの人はケインズ理論から20ドル台後半に達するだろうと考えた。しかしウォーレンは、1926年の物価水準を取り戻すためには28ドルでもまったく足りないとFDRを説得した。さらにウォーレンは、コモディティ価格指数を1926年の水準に戻すまでドルを減価しようというラディカルな政策を提案した。

これは混乱を呼ぶ計画だった。購買価格をロンドンの自由市場と合わせるのに十分なほど大量の金を買った経験はFDRにもなかったのだから。私はこの計画を集中的に研究した結果、FDRは市場である種のゲームを行っていたと結論付けている。金購買価格の上昇ぶりは、市場に対してFDRがどのくらいで金に再ペッグするかのシグナルとなった。(彼は最終的にオンス当たり35ドルを想定していた)

先に進む前に、ここで扱っている金融政策がどのようなものかを説明しよう。私は1929-1932年の研究を通じ、金融ツール(マネーサプライや金利)の変更は総需要に対して直接大きな影響は与えず、「金利ツールが将来どう変化するかの予想」の方こそが大きく総需要に影響するという結論に至るようになった。1933年の研究を始めると、このアプローチはFDRのドル減価計画を分析する際に特に当てはまるということが分かった。

この考え方は合理的期待革命から来ていると思うが、単にシカゴ派のマクロ経済学から来たとは書かない。卓越したニューケインジアンであるマイケル・ウッドフォードも金融政策の将来期待経路の変化の重要性を強調している。彼の弟子であるガウチ・エガートソン(アイスランドの偉大な経済学者)も1933年について、そのアプローチから同様の結論に至っている。私のよりもはるかに洗練された、よりニューケインジアン的モデルだが。クルーグマンもガウチの2008年のAER論文(私の論文が三本引用されている)を称賛しているし、私の分析も主流から遠く外れてはいないようだ…今のところ。

FDRは、コモディティ価格が1926年の水準に戻るまで金の購入価格を継続的に引き上げ、その後ドルを新たな水準で金にペッグしようと計画した。賢明な読者は、もし市場がFDRのゲームに気づけば、計画をアナウンスすると直ちにコモディティ価格が1929年の水準に戻るだろうとわかるだろう。しかし、FDRはどうやって適正な金の再ペッグ価格を決めればいいのだろうか?これが1997年のJMCB論文でバーナンキとウッドフォードが指摘した「循環問題」で、市場の予測を目標とする金融政策は一般にこの問題にさらされる。(この論文の不備については後日論じる。それは今の危機を説明するのに有益だろう)。いずれにしても、当初FDRの政策が信任されていなかったのが幸運だった。だからこそこの政策は本来よりもよく機能したのである。市場がFDRのゲームを理解するのにどれくらいの時間がかかったかを見てみよう。

長くはかからなかった。ニューヨークタイムス(NYT)の分析は日に日に洗練度を増して行った。あたかもルーカスの40年前にニューヨークタイムス紙が合理的期待理論を発見したかのように。[経済学者以外の方へ-これはルーカスを批判しているのではなく、むしろ称賛に近い。ルーカス理論は、政府は常に合理的期待を使ってきたことを含意しているが、学会がこれを拾い上げるのに数十年かかったということだ。] 以下は、ニューヨークタイムス紙が、将来の政策意図のシグナルが問題だと見ていたことを示す例である。

「昨日の外国為替市場の動きから、ドルはRFCの”日々の金価格予測”よりも、”政府公認のドル減価の意向が金の購買価格を引き上げていること”の方に影響を受ける、という新たな描像を求めている。昨日のRFCの金価格は前日と変わらなかったが、今はこれ以上のドル安を後押ししないというRFCの意向を市場は無視した。それよりも、財務省の変化のニュースに注意を払うようになった。」(ニューヨークタイムス, 11/16/33, p. 37.)

ここで「変化」とあるのは、この計画への抗議の辞職が続いたことである。財務長官のウッディンに始まりアチソン、スプラーグ、ワーバーグら重要人物がそれに続いた。この政策には大きな抵抗勢力と、反抵抗勢力が存在していたのである。この頃は20世紀の中で最も金融政策が政治的になった時期である。アーヴィング・フィッシャーはウォーレン及びFDRを擁護したが、米国やヨーロッパのほとんどの権威たちはウォーレンは狂っていると考えた。今の経済史家のほとんどもそう考えているように。私は違う。政治的プレッシャーが大きくなったため、結局FDRは物価水準が目標に到達する前に政策を放棄しなければならなくなった。

ところで。このブログで「バーナンキ」を非難する時、彼を個人として見るべきではないと思っている。金購入計画の崩壊の例と同様に、私が必要と思うラディカルな政策変更に必要なだけの政治力が彼には足りないのだろう。私は2006年にはFed議長として彼が一番の選択肢だと考えていたし、他の経済学者が彼より上手くやれたかどうかは疑わしい。

当時の物価・株価・工業生産の上昇は、1933年3月の金本位制停止と続く4月から1934年2月までの段階的なドルの切り下げでほとんど説明できるという証拠は、全部は書けないがたくさんある。その理由は?貿易収支ではない。貿易収支は輸入の急回復で悪化したのだから。

合理的期待だけがこれを説明できるとガウチと私は考えている。ガウチはレジーム変更がインフレ期待を高め、その結果実質金利が下がったことに焦点を当てている。私は、金価格の切り上げという明確な政策シグナルが金の期待価格を、ひいては期待マネーサプライを変えたからだと考える方が好みだ。1933年の3月から7月の期間における物価と産出の異常な上昇を説明する、非-Ratex(合理的期待)な説明は見たことがない。名目金利はほとんど変わらなかったし、1932年の公開市場購入(金本位制の制約の下での)はほとんど効果がなかったのだ。

FDRが計画を放棄した理由の一つは、多くの経済学者たちが既にドル切り下げで1926年の物価水準に戻ったことを持って、もう十分だと進言したことである。彼らは金本位制に復帰したら米国に金が流入しマネタリーベースが急上昇するだろうと論じた。彼らは金流入とマネタリーベースについては正しかったが、商品価格については間違った。マネーサプライの成長期待は既に商品価格に織り込まれていて、市場はFDRに対してさらなるインフレが必要だと告げていることを合理的期待を仮定して理解していたのはウォーレンだけだった。これはウォーレンが数ヵ月後に残したメモである。(1934年に商品物価が上昇しなくなった際のFDRの失望を記している)

「大統領は(a)さらなるインフレを望み、(b)通貨減価の効果には長いラグがあると思いこんでいた。彼は他の多くの人々がそうだったし今もそうであるように、商品価格は金価格の変化に直ちに反応するという原則を理解していなかった。」

在宅なのでデータがないが、通貨減価の間、卸売物価指数は20%以上上昇したが、1934年から1940年半ばまでは5%ほど上昇しただけだったと思う。

昨今、Fedは低金利政策が働くのを見守っているだけなように見える。評論家たちは財政刺激パッケージが成功するかどうか終わりのない議論を続けている。私に言わせれば既に結果は出ている。政策にとって大事なのは、何かが「働くだろう」ということではなく、それが働くことを最適予測が示唆しているかどうかなのだ。スヴェンソン(先日クルーグマンが称賛している人物)が強調するように、政策目標に合致していると期待されるような政策スタンスをとるべきだ。株式・商品・債権市場は今の政策スタンスが非常に不適切だというシグナルを発している。Fed内部の見通しさえ彼ら自身の暗黙の成長目標を下回ることを示唆している。

私は10月(2008年)初めの株式市場のクラッシュで批評活動を始めるようになったのだが、このことをさんざん述べてきたことから、私がウォール街の事情を金融財政策に持ち込もうと提案していると非難する向きもあるだろう。それは三つの理由で違う。

1. 私は反循環的な財政政策が嫌い(所得減税を経由するシンガポール型は別)。シンガポールと違い我々にはバカみたいな財政赤字があり、これを賄えなくなる。

2.  1987年がそうだったように、株式市場は指標としてミスリーディングになることがある。むしろ一般的には株式・商品・債権市場は最低限の考慮にとどめるべきだ。

3. それでも2は不適切だ。ロバート・シラーと私は何年も名目GDP先物市場の必要性を強調してきた。Fedは今こそこの市場を設立し、取引を推進するべきだ。

1933-34年という移行期の話が、金融政策がどのように経済に影響するかを観察する見る良い例になると示するところから始めてみた。このメカニズムはやや複雑だ。もし国民が「米国が最終的には高いペッグ価格で金本位制に復帰しそれが数年続く」と予想していたらどうだっただろうか。そうであれば金のスポット価格が将来の期待ペッグ価格の指標となり、その期待ペッグ価格は、期待マネーサプライおよび期待物価水準と強く相関しただろう。

(この辺の話が難しい人はこんな風にイメージしてほしい。金が1オンス20.67ドルだった時代は、その基準価格は数十年間、多少変動しながらも基本的には水平だったのが、35ドルに再設定されたときは高い水準でジグザグに動くようになった。そしてこの「ジグザグ」はしばしば大きく、とても重要だ。完全に水平というわけではなくなったのだ。)

戦間期の人々が上のように物事を考えたという証拠はあるだろうか?ポール・アインチッヒは今日の誰よりも、この時期の大衆心理を良く理解していた。

「米国を通貨停止(訳者コメ:”currency truce” 金本位制離脱のことかな?1933年3月)に同意させるよう説得する時に一番使われた論法は、それが将来の金融政策を拘束するものではないというものであった。実際の経験を踏まえるとこれはまったく説得的ではない。不換通貨が一定以上の期間、安定運用されると強い抵抗を引き起こさずに水準を変えることがますます困難になるということが分かった。」

アインチッヒは正しく、1934年に採用された1オンス当たり35ドルというペッグは1968年まで続いた。

1933年から1934年とは、普段は厚い霧に隠されていて経済学者が「同定問題」と呼ぶ金融政策の伝達メカニズムをはっきり見ることができる期間だ。ウッドフォードとエガートソンが、金融政策のショックは将来の政策期待の変化であるとするのは正しい。しかしこのショックを同定するのは通常は簡単ではない。1933-34年はFDRが金価格を政策ツールとして用いたのでそれがくっきりいわかるのである。

まとめると、1933年からの教訓は以下の通りだ。

1.  ポリシーのラグは多くの金融経済学者が想定しているほどの問題ではない。私はインフレを心配していない。ただし戦後の政策ラグ研究に見られる同定問題や、フリードマンとシュワルツが見出した戦間期のショックについては別のエントリに譲ろう。

2. 金融財政政策を理解するのに合理的期待は不可欠が。最も洗練されたモデルは、左翼(たとえばクルーグマンの「流動性トラップ」)右翼を問わずすべて合理的期待を前提として構成されている。

3. 私の見方では、金融政策の伝達メカニズムは以下の通り。金融ショックがマネーサプライ将来経路の予想を変化させる。超過現金残高メカニズムを通じて名目GDPの期待が変化する。名目成長(または名目総需要)の期待の変化が、現在のAD(総需要)水準を変える。最後の点は、ADは実質金利に影響されると考えたがるニューケインジアンも受け入れている。(後日論ずるが、これはケインジアンが謎めいた「信用」という言葉で表現するものである)

ジョージ・ウォーレンは本当に私のロールモデルだろうか?これは少し言い過ぎだ。フリードマンとシュワルツこそは確かに私のロールモデルだ。(彼らの金融史がどれだけ歴史を変えたか、またどれだけ現代マクロの「公式手法」に対して注意を喚起するものであるかはいつかエントリを書く)

1.  1933年末に金融刺激が必要だと理解していたのはジョージ・ウォーレンだった。ケインズや他の大御所のほとんどが反対していたその時に。

2. インフレ時限爆弾が爆発するのを「政策ラグ」が隠しているという主流の議論の本質を見ていたのはウォーレンだった。

3.  オークション型市場の価格に組み込まれている期待を指標とするフォワード・ルッキングな金融政策の必要性を理解してたのはウォーレンだった。

この無名の経済学者はほとんど一人で経済学の権威と戦っていたのである。過去のエントリに書いた私の異端的な見解を読んできた方なら、私が彼をロールモデルだとアピールした理由を理解してくれるだろう。

PS: 私にとってこのテーマは身近すぎるので、明確とは限らない因果関係を書いたかもしれない。説明が必要なら言ってほしい。私は1997年に金購買計画についての長い論文を公にしている。また三年前に書いた大恐慌についての原稿の出版社が見つかれば、その第9章にクリアな説明が載る予定だ。また、今回は短いエントリと言うよりフル記事に近いから、本来ならピーター・テミンやバリー・アイケングリーンはじめ、1933年についての先行研究がある大勢の重要な経済学者を引用するべきなのだろう。

PPS: 昨日のボストン・ヘラルド紙にブラッド・デロングのインタビューがあった。ブラッドは私を右翼と思っていて、その意見の多くには賛成しないと言っていた。それでも彼がイデオロギーの違いにも関わらず私を思慮深い(thoughtful)と言ってくれたのはうれしい。わたしは彼のマネタリズムについての論文はとてもいいと思うし、それらをしばしば引用する。私はFDRの大ファンではないのだが、ブラッドが私を右翼と呼んでいるにもかかわらず、このエントリがFDRの崇拝者の多くである左翼の人たちに届くのは面白い。(あとはポール・クルーグマンが「思慮深い右翼」というフレーズをもっと使ってくれればいいのだが)

PPPS:  人々が読んでくれるとわかる記事を書いたり、レフェリーを喜ばせるために原稿をボツにしなくてもいい、といった事がどれだけ開放的な気分か皆さんにはわからないだろう。とても長いエントリの最後までたどり着いてくれてありがとう。