三つの10月 by Scott Sumner

スコット・サムナーのブログの初期エントリをぼちぼち翻訳紹介するシリーズ。今回は、”Three Octobers“(8. March 2009)です。この前日のエントリが「金融政策の短期講習」だったのですが、その準備をした上で書き上げたこちらこそが渾身の本命エントリと位置づけられるでしょう。

ところで実は私は昨晩サムナー先生が大恐慌を講義する動画を見つけ楽しく見たのですが、このエントリと「わがロールモデル、ジョージ・ウォーレン」で予習しておいてよかったです。サムナー好きな方はぜひご覧ください。


表題の三つとは1929, 1937, 2008のこと。いずれもコモディティ価格の下落を伴う厳しい株価下落が起こった年だ。二度の古い10月クラッシュと最近のそれには興味深い類似点があるので、一歩引いて過去の例を見ておくと昨今の危機をより理解できるようになるだろう。

これらの事例は広く「金融」問題と定義できるが、現代金融経済学をもってしてもこれら三つのエピソードを簡単に説明し切れるものではない。しかし一つ前のエントリで描いた金融モデルなら、経済を深刻な不況へ押しやった力が何だったのかを説明することができる。つまり、1929年の中央銀行の金貯蔵が問題で、1937は民間部門の金貯蔵、そして2008年は銀行の準備金貯蔵が問題だったと。

三回のクラッシュには重要な相違点もある。初回のは純然たる需要ショックで、金融や供給サイドの問題は特に絡まなかった。1937年は金融システムは安定していたが、経済は強烈な賃金ショックに見舞われた。そして2008年は強いオイルショックと厳しい金融危機があった。

私がとても興味惹かれるのはこれらの10月付近には、いずれも劇的に期待が変化したという強い「感じ」(the strong sense)が金融専門紙から読み取れることである。投資家たちが、向こう2、3年先の名目GDP成長見通しを突然、劇的に引き下げたという「感じ」だ。もちろん今も昔も新聞は「名目GDP」とは書かないが、三回の10月にはいずれもインフレ期待と実質成長期待が急落している明らかな「感じ」があった。例えば1929年半ばは経済は力強いブームの最中にあったのに、12月までには一転して、この不況は極端に厳しくなるだろうという不吉なレポートがたくさん出るようになっていた(今回の不況と異なる)。工業生産は第4四半期に極端に異常な率で下落した。1937年と2008年はどちらも株価が急落し、同時にコモディティ市場(そこでも価格が急落していた)や債券市場(短期金利はゼロに近い水準まで下落した)からの非常に弱気なニュースが流れていた。繰り返しになるが、工業生産は極端に急速な率で下落したが、それは他の不景気と比較しても急激なものだった。

これら三度の資本市場のクラッシュが、それに続く不景気の引き金となったのかと考えたくなるかもしれない。しかし私はそうではないと思っている。同規模のクラッシュが1987年10月(また10月!)にも起こったが、その後は不況にならなかったどころか、マイルドな減速すら起こらなかった。もちろん個々の事例はそれぞれ事情が異なるとは言え、もし資本市場のクラッシュが成長に強い影響を与えるものであるならば、1987年の直後にちょっとした下落すら認められないのはおかしい。

October 1929

私が恐慌について書いている原稿でも1929年のクラッシュを完全に説明できるか心許ないのだが、部分的な説明ならできる。鍵は金融政策だ。金本位制において真に外生的な政策ツールは金準備率(準備のための金とマネタリーベースの比率)だけである。1926年12月(フランスが金本位制に復帰)から1929年10月までの期間、世界的に金準備率は年2.5%のペースで上昇した。これはマイルドなデフレーション政策である。この期間の世界の物価水準はやや下落傾向だった。

しかし、金準備率は続く12ヶ月で9.6%で急上昇し、ほとんどの先進国は厳しいデフレーションと不況に陥ることになった。ひとつ前のエントリの金融教室を見逃した読者のために説明すると、中央銀行の金保有は金の実質価値を上げる。金本位制において金は価値尺度(the medium of account)なので実質価値(もしくは購買力)の上昇はデフレを意味する。

この時の因果はここで説明するには複雑すぎる。市場が未来を予期していたかどうかも確実なことではない。ただし、市場は金準備率をはっきり意識してはいなくても、中央銀行が知らず知らずのうちに間違って非常にデフレ的な政策スタンスをとっていることを直観レベルで理解したのではないかと考えている。株式市場の動きと金融政策との関連を容易に見い出せる1930-38年とは異なり、金融引き締めがクラッシュを引き起こした「決定的」証拠は見当たらない。しかし、大恐慌の引き金を引いた非常に緊縮的な金融政策が、この10月クラッシュ付近に始まっていたようなのは興味深い。この繋がりを見つけた唯一の研究者が私だろう。

私はクラッシュに結び付いたと思われる4つの要素を見つけた。重要な順に挙げる:

1.  世界的に金準備率を急増させる金融政策スタンスが採られたこと。とりわけ米国、フランス、英国。 

2.  クラッシュの時期にニュヨークタイムスの見出しを賑わしていたスムート・ホーリー法をめぐる激しい議会闘争。ジュード・ワニスキーもこの議論を展開していているが、私が考える理由は彼とはやや異なる。

3.  10月初め、 ドイツの政治家シュトレーゼマンが死亡したこと。10月下旬にドイツ政治状況が悪化したこと(右翼ナショナリスト政党が地盤を増やし、直近に結ばれていた戦争負債の国際合意が脅かされた)。

4.  10月26日に合併規制が決まったこと(理由は反トラスト)。ジョージ・ビトリングマイヤーによれば、このニュースが市場に数日前に届いていた可能性がある。

これらの要因が1929年10月の株式市場にとってどの程度重要だったかは分からないが、現代の目から見て最初の三つは非常に重要だ。マネー緊縮は1933年3月まで経済を圧縮した。1930年のスムート・ホーリー法をめぐる再闘争は明らかに5月から6月の株式市場クラッシュの主要因となった。そして1931年半ばから1932年終わりまでのドイツの危機は、おそらく米国の株式市場を縮小させた主要因だったと思われる。

October 1937

1937年10月(1929年と2008年もそうだが正確には9月から11月まで)のクラッシュも1929年と同様に興味深いが、より複雑だ。まず基本的な事実を抑えておく必要がある。

1.  米国は1937年に金本位制に復帰した。もはや金本位制は国際標準ではなくなっており、また米国では金の個人所有が禁じられるようになっていた(ただし実はロンドンの銀行に所有していた)。しかし米国の金融政策はそれでもなお国際金市場へのショックに翻弄され続けた。簡単に言えば、1936年半ばから1937年半ばの期間は不況だったにもかかわらず、金放出の嵐が米国の卸売物価指数(WPI)を10%押し上げた。続く1937年半ばから1938年半ばまでの期間でWPIは元に戻った。これは一見したところ1936年末から1937年初めにかけて力強い成長期間があり、そのあとマイルドなデフレに移行したように見えるが、そうではない。 1936年には力強く成長していた工業生産も、拡張的な金融政策にも関わらず1937年春には踊り場に入っていた。

2.  第二の要素はFDR(ルーズベルト大統領)による5つの賃金ショックのうち第3のもので、5つ中では政府の政策との関係が薄いものだ。1936年の終わりから1937年の大部分の期間を通じて労働組合の加入者が急増した。1935年のワグナー法によって組合の組織が容易になり、1936年にはFDRが大統領選で圧勝したため、組合の指導者たちはワシントンは自分達の味方だと確信しするようになった。これにって賃金ショックが起こった動きはWPIのバブルの動きと似ており、時間的には半年後ろにずれていた。賃金はWPIを追いかけて上昇し、追いかけてピークに達し、追いかけて下落した。

1930年代を通し、実質賃金(名目賃金÷WPI)と月次の工業生産と密接に連動していて、1936-38年も例外ではなかった(賃金は反循環的なので実質賃金の系列は反転させて見る必要がある)。実質賃金が下がる時(WPIは名目賃金よりも上昇が速い)に景気は良くなり、名目賃金が物価より早く上昇するときには低迷した。実質賃金が変化しない期間はそれなりに成長だった。そして 1936-38年の期間こそは私の一般不況モデルによく当てはまる。賃金とWPIで説明すれば話は終わりなのだ。以前のエントリで論じたように、賃金に影響を及ぼした外生要因はニューディールの5つの賃金ショックだった。WPIは国際金市場のモデルで説明できる。金価格は1929-33, 1934-40は固定されていたが、1933-34はウォーレンについてのポストで書いた通り意図的に変化させていた。

私はこのモデルを検討する中で、 1936-37年に物価を押し上げた要因は三つあることに気づいた。1936年遅く、フランスなどの国々が金本位制を離脱したので中央銀行が金を放出した。またロシアの金輸出が増加し、ロシアからはもっと大量の金が出てくるのではないかという(間違った)予想も広まっていた。さらに、ヨーロッパで金本位制が崩壊すると大量の金が米国に流入してインフレになるのでFDRもドル切り上げを強いられるのではないかという恐怖が発生し、民間が金を放出した。「経済学者の予想よりも悪い…」のエントリで引用したポール・アインチヒの言葉はこのことだ。

続いていろいろな要因が複雑に関係して、このプロセスは1937年半ばに反転し始めた。賃金の上昇が経済を減速させ、ドル切り上げの恐怖も消え失せた。ロシアの金の量は予想ほどではなかった。人々は米国が再び不況に戻るのではないかと感じるようになり、投資家たちはFDRが1933年と同様に次の金融「カンフル剤」を打つのではないかと心配するようになり、金放出は徐々に金貯蔵に道を譲って行った。秋には(ドル)切り下げへの恐怖が急速に広がり、金貯蔵が急増した。米国への金の流入はほとんど無くなっていた。高い賃金負担と物価急落により、米国は深い不況に落ち込み、株価とコモディティ価格は急落した。

1937年と2008年はいくつかの興味深い共通点がある。どちらの年も世界的なコモディティ価格の急上昇で始まり、物価の急落で終わった。相違点としては、1936-37のブームは純粋にマネタリーなものだったので、経済そのものはある意味不況のままだったのに対し、2007-08は途上国の力強い成長にけん引される好景気だった。

興味深いのは、どちらの年も中期的な成長期待およびインフレ期待が急反転した点だ。1937年の前半は米国の金保有が増大するという予想から、金融市場もマスコミも明らかにインフレが続くと予想していた。それが1937年末には180度反転していて、長いデフレ期間に入るつつあるという見方が広がっていた(そしてそれは現実となった)。

2008年10月にこれと似た期待の急反転が起こった時、私はすぐに1937年の出来事のことを想起し、Fedが迅速かつ効果的に行動しないと名目成長軌道が5%のはるか下に落ち込むのではないかと心配になり始めた。Fedは確かに素早く行動したが、間違った問題—金融の安定—にフォーカスしてしまった。

類似点はまだある。 Fedは1936-37年にかけて三段階で銀行準備金を二倍にした。最近の私はFedの準備預金に付利する政策(これは準備金の需要を増す)を批判しているから、皆さんは私がこの失策のせいで当時の不況が始まったと言うのだろうと思うかもしれない。しかしそんなに簡単ではない。実際には当時Fedへの信頼はそれほど高くなく、投資家たちも当初Fedのこの動きにほとんど注意を払っていなかったのだ。当時の金融新聞を見ると、金の大流入がFedの不胎化の試みを圧倒しており、Fedがマネーサプライの増加を抑制することはできないだろうという予想の下、投機家たちはコモディティ価格を急上昇させていた。

Fedの失敗は1937年の暮れだった。金市場の期待が反転した直後に積極的な行動をとらなかった。ただ1929年とは違い1937年の不況の容疑者は金融政策だけではなく、賃金ショックもまた重要な役割を果たしていた。

財政政策はどうだったか。1937年に賃金税が実施されたがわずかなもので、雇用コスト増大をもたらした賃金ショックの全体からすれば若干寄与した程度に過ぎない。1937-38年の不況の理由は需要不足だったので(議論のため半分が賃金の、もう半分がデフレーションのせいだったとしよう)財政政策が果せる役割はほとんどなかったのだ。1937-38年の急激なデフレーションは明らかに世界の金市場の反転とリンクしていた。ちょうど直前の1936-37年のインフレーションもそうだったように。財政政策のタイミングとしては間違った時期なのだ。ケインジアン経済史家もマネタリストも、当時の政策失敗をコモディティ・株式・債権市場の動きと結び付ける必要があることを見落としている。こんな風に、大恐慌をある意味大局的に分析してたのは私だけだろう。

October 2008

2008年秋に資本市場、コモディティ市場、工業生産および債権利回りの急落を引き起こした金融政策の誤りの周辺では、多くの要因が渦巻いていた。そのうち最も重要な二つは、コモディティ価格の上昇と金融危機だった。

私がコモディティブームや金融危機が総需要下落を引き起こしたと言っていないことに注意。これらは金融政策の失敗を招いたが、崩壊を引き起こしたのは金融政策の失敗の方だと言いたいのだ。2008年半ばまではそこそこのプラス成長だった。株価は順調に推移していて、7月初旬の段階でも最高値からの乖離で約10%程度に収まっていた。世界経済は力強くさえあり、7月まで異常なコモディティブームだったことがそれを裏付けている。問題の失敗はこの年の後半にあった。第3四半期と第4四半期を区別し、これらを別の政策失敗として捉えるのがよいだろう。

ラルス・スヴェンソン的な意味でなら第3四半期の政策は最適だった。Fed内部の名目消費成長見通しは目標に近いものだった。このことは9月16日の会合で、金融政策を変更しなかったという事実に表れている。この時Fedは依然としてインフレと不況双方のリスクがおおむね均衡していると見ていたのだ。しかしFedに先んじて民間が事態を理解した。今の我々には明らかな通り、第3四半期に名目成長が急落していた。8月に工業生産(住宅不況の二年間を持ちこたえてきた)が急落し始めてた。この第3四半期のFedの失敗は二つ。第一は、市場の見通しによりもFed内部の見通しを重視し過ぎたこと。第二は、名目成長に十分注目せず、インフレ率に注目しすぎたこと。(政策担当者にとって名目成長がインフレ率よりもどれだけ良いシグナルであるかは—2004-06年の住宅バブルでも同様だったことを思い出すといい)

2008年の第4四半期はさらに急速に悪化していた。緩いスヴェンソン基準で評価したとしても、10月半ばまでには金融政策が信頼を失っていたことは私には(恐らくほとんどの人にとっても)明白だった。Fedの内部見通しでさえ政策目標をはるかに下回ってしまっていた。さらに悪いことに、金利はゼロに接近し、米国はすぐにでも日本のような状況に移行し、それが数年続きかねないということに市場も気が付いた。これを防ぐ唯一の方法は、積極的に非伝統的金融政策に踏み出すことだった。単に短期国債とベースマネーを交換するだけではもう遅かっただろう。

残念ながらFedは二つの大失敗を犯した。第一は、その後5か月間金利を引き下げず、準備預金に付利するという非常にデフレ的な政策を採用してベースマネーの拡大という緩和の努力を無効にしてしまった。もっと悪かったのは、金融危機こそが「真の問題」であり、金融危機の問題が解決されないうちは総需要を刺激することはできないという間違った前提に基づき、金融政策から目を逸らせたことだ。総需要がテコ入れできるうちに手を打つべきだったのだ。この失敗は理解できないこともない。2008年の10月当時の私は、本当の問題は貨幣的なものであって金融システムではないのにと心配していた、ごく少ない経済学者の一人だった。金融危機は間違いなくこの不況の中で二つの意味で大きな役割を演じていた。 

1.  政策遂行者の気を逸らせた

2.  マクロ経済の安定に必要なヴィクセルの均衡率を引き下げた

金融危機は信用の有効需要を急落させ、流動性トラップへの恐怖が生まれた。それ自体が総需要の急落を引き起こしたわけではないが、Fedの仕事を難しくした。しかし、Fedは自らの使命は物価と産出の安定であると宣言しており、金融需要と貨幣流通速度へのショックを緩和するのが義務であるとも言っており、デフレの恐れがあるときは先回りして行動するのが義務だと認めており、市場の指標は良いシグナルを出すとも言っていた、ということを忘れないことは大事だ。かつてバーナンキはゼロ金利であっても金融政策は効果的だと書いていた。彼らは自身の基準に照らしてすら失敗したのだ。

今回のは簡単なまとめなので重要な細部をたくさん省略してしまっている。原稿では1929-30年の章は大体40ページある。1937-38年の章は二つあってもっと長い章だ。原稿は全部で14章。私の本を買うべきだろう(出版社♡が見つかれば)

このブログでは大恐慌について別の観点からも触れていくつもりだ。