“マネーを刷る”ってどういう意味? by Andy Harless

原文はAndy Harless のブログから What Does “Printing Money” Mean?(December 9, 2010)  

感じがいいエントリだったのでご紹介。準備預金への付利のこと知らなかったとか、したり顔でないところがステキです。例によって超訳ご注意。8月の参考エントリ:「Fedが準備預金に付利しなくなったら何が起きる? by ANDY HARLESS」 


日曜日の60 Minutes でバーナンキが「QE2は“マネーを刷った”わけではない」と言ったのを聞いて、私は最初とても驚いた。もちろん物理的に刷るということではないのだが、誰だってこのフレーズを文字通り使ってるわけではない。もし準備預金を作り出すのが「マネーを刷る」でないなら、それはいったい何だろう。最初は、たぶんベースマネーを増やすことは銀行の預け金を増やすことにつながることを期待してのことではないという意味かもしれないと思った。しかしもしそうなら、そもそもどうしてそんなことをするのだ? QE2が銀行の預け金を増やさずに効果を発揮するようなことを想像するの難しい。 いや、教科書にある貨幣乗数プロセスを通じて増やすのではないということかもしれない。 確かに今、預金準備は縛りではないし、預金準備率も安定に推移するとは見られてない。しかしそれでは言い逃れだ。Fedは準備預金を増やしている。この行動は、どんなプロセスを経るにせよ、銀行の預け金を増やすことを意図している。マネーを刷らずにどうやって? 

ますますわからくなった。以前バーナンキが 60 Minutes に出たときどう言っていたか忘れてしまったが、ジョン・スチュアートも、QE1でバーナンキは基本的にFedがマネーを刷るということを認めていたというクリップを持って、前と違うだろうと笑いを取っていた。  

そのあともう少し考えてみたが、今はバーナンキの言葉が矛盾していると考えてはいない。問題は「マネー」という単語の定義が見た目よりもクリアカットではないことなのだ。実際、銀行預金に利子がついたり、人々がクレジットカードや債券ファンドに振り出される小切手で支払いをする世界において、「マネー」という概念で捉えようとするのはもはや有益ではないと論じることもできる(少なくとも経済学者にとっては)。

ずっと昔、大学院に入る以前の私はマネーという概念がとても単純なものだと考えていた。現金(連邦準備券とコイン)があって、銀行にもあるやつがマネーだと。あとは金融投資信託(MMF)があって、それらもマネー「のような」ものだと。本当に勉強を始めるようになって、特に流動性選好の概念、流動性を保持するコストを金利だと考えるということを知り、私が考えていた枠組みは適当ではないとわかった。(MMFには利子が付いてほとんどマネーのようだ。銀行預金にも利子が付き、利子をあきらめずに流動性を保持することができる。するとコストはどこだ?)  

当時はこんな結論に至った。銀行預金などをマネーと考えるのはやめて、それらは中央銀行が創造する「外部マネー」だと考えようと。このアプローチはうまく行くようだった。この意味ならマネーを持とうとすれば利子をあきらめなくてはならないし、銀行預金(マネーではない)の場合は、銀行がその預け金を維持するために持たなくてはならないマネーの量によって利子が決まる。さらにそのマネーを政策決定者がコントロールしているので、政策がマネーの量を決めるという単純な前提とこの考え方はとても良く合致した。  

しかし2008年、Fedは準備預金に利子を支払い始めた。(いくつかの他国の中央銀行はしばらく前からそうしていたが、田舎の米国人なので全然知らなかった。)正直言ってそのときは気づかなかったのだが、これによって私のマネー概念は根底から破壊されてしまった。準備預金に利息を払うならば、これらはマネーではない。何故ならマネーを保持するためには利息をあきらめなければならないのだから。しかし金融政策とはまず第一に銀行準備金の量を操作するのだから、確かにマネーでもある。認識論的誤謬!(Epistemological fail!)  

準備預金はマネーなのだろうか? 私にはわからないが、ここには考えるべき事がある。準備預金と国債証券はどこが違うのだろうか。どちらにも利息が支払われる。作り出す組織は異なるが、だから何だというのだ?どちらも究極的には政府の義務である。準備預金に支払われる利息はFedの利益から出るが、利益は別のルートで国債にも行くの。  

国債は払い戻さなければならないが準備預金は違うとあなたは言うかもしれない。しかし準備預金を保持することは銀行が本来望む機能ではない。もし銀行(もしくはその顧客)が現金を望んだら、準備預金は銀行(もしくはその顧客)に払い戻されなくてはならない。また国債を持っている人がロールオーバーを望むならば、国債の借りを払い戻す必要はない。このように両者に実質的な差異はないのだ。満期という意味では異なる。国債の満期は一か月から30年まであるのに対し、銀行準備金はゼロである。しかしこれの違いは本質的ではない。単に準備預金が特別な場合であるというだけで、両者が別の何かであるということにはならない。  

なるほど準備預金は法定準備を満たすのに使うことができるが国債ではできない。しかし再度、それが何か? 銀行はたくさんの規制を受けている。銀行の資産構成に対してはいろいろな角度から規制かかっている。法定準備を特別視する理由はない。今日では法定準備よりも資本からの要請のほうが制約に近くなっていて、ほとんどの銀行にとっては国債が資本に対してちょうど法定準備を満たすのと同じような働きをしている。もしかすると未来のいつの日か、銀行は再びFedが発行するゼロ満期資産を法定準備に充てるようになるかもしれないが、その資産がどのくらい根本的に異なるタイプのもになるかは私にはわからない。ジャンク債かT-billか準備預金なのかもしれないが、私には根本的に異なるタイプの資産であるような気がする。  

私は銀行準備金は本質的にゼロ満期の政府負債だと思う。それをマネーと呼びたいなら構わないのだが、その言葉の使い方はとても曖昧だ。銀行準備金をマネーと言うならどうして国債をそう呼ばない?ならば短期国債や長期国債は単に満期の長いマネーということになる。  

バーナンキの話に戻ろう。QE2とは何か?それは準備預金と長期国債の交換(どちらも政府負債の一形式である)であり、実質的な違いは満期だけだ。QE2は「マネーを刷ること」ではなく、単に政府負債の再構成だ。  

それではQE1は何だったか?準備預金と民間部門の資産の交換、本質的には政府負債と民間負債の交換であった。QE1では、存在しなかった政府負債を相当量「印刷」したことがとても重要だ。この政府負債は図らずも、我々がふだん政府負債と考えているものより「マネー」に近い。だからQE1は、準備預金は実は政府負債で云々と説明するよりも、「刷ったマネー」と民間部門の資産を交換したと説明する方がシンプルで実質的に正しいのである。