「なぜFedはもっと積極的な行動に打って出ないのか?」 by Economics of Contempt

以下は、Economics of Contempt, “Why the Fed Isn’t Doing More”(Economics of Contempt, August 1, 2010)
の訳。


ここ数カ月の間、私はFedがもっと積極的な行動に打って出るかどうかについて懐疑的な立場をとってきたが、ダラス連銀総裁であるリチャード・フィッシャー(Richard Fisher)がつい最近行ったスピーチ―クルーグマンがこの記事の中でフィッシャーのスピーチをコテンパンに酷評している―は、私のこの疑念を支持するようないくつかの証拠を提示しているようである。重要な疑問は、長引く高失業と目前に迫るデフレーションの危機を前にしてもなおなぜFedは経済を刺激するためにもっと積極的な行動に打って出ようとする素振りを見せないのか、ということである。クルーグマンが指摘しているところでは、Fedが非伝統的な政策の採用に億劫になっている理由は、非伝統的な政策がどのように機能するかを知る者が(これまで試されたことがないために)誰一人としておらず、また非伝統的な政策が失敗した場合の精神的ショックがあまりにも大きいからではないか、ということである。クルーグマンのこの指摘は、「なぜFedはもっと積極的な行動に打って出ないのか?」という疑問に対する解答の一部を形成しているだろうと思われる。

しかし、私が思うに、Fedがさらなる積極的な行動に出ることをためらっている理由は、前回Fedがリスクをとってラディカルな/非伝統的な行動―AIGの救済、通貨スワップ枠の拡大、マネー・マーケット・ファンド市場に対する流動性の供給―に打って出た際に、政治家やメディアから猛烈な批判を浴びせられる結果となったことにその一因があるのではないだろうか(もっとも、AIGの救済をめぐるFedの行動について議会その他による諸々の調査が行われたが、これといって問題となるような事象は明らかにはならなかったが)。Fedの当の行動が正しく、Fedの行動のおかげで金融システムのメルトダウンを回避することが可能となったかもしれないにもかかわらず、目立ちたがりの政治家メディアに登場するコメンテーターらは、Fedの権限(authority)や自律性(autonomy)に縛りをかけようと意図して(この意図は部分的には実現されたのであるが)、Fedの行動を曲解して伝えたのであった。金融規制改革を巡る議論のやり取りの中においては、危機の最中にラディカルな行動に打って出るFedの能力に縛りをかけることが共和党、民主党双方にとっての明示的な目標となったのである。

ラディカルな/非伝統的な行動がうまくいった際に期待し得る反応がこのようなものだとしたら、非伝統的な政策を試みて、もし失敗したとしたら一体どのような反応が待ち構えていることだろうか? 私が思うに、この懸念こそがFedを怖気づかせているのである。Fedが非伝統的な政策プログラムの実行に乗り気でない理由は、ポピュリズムの波に乗って勢いを得ようとタイミングをうかがっている政治家らが再びFedの権限や独立性(あるいはFedの存在それ自体に対しても)に手をかけようとするのではないかという恐れのためなのである。

冒頭で触れたリチャード・フィッシャーのスピーチから一部引用しよう。

我々Fedは、物価の安定と維持可能な雇用の最大化とに対する我々のコミットメントへの政治介入に耐え忍ぼうとする我々の意思に関する長引く懸念を振り払って行動し続けなければならない。我々は、コマーシャルペーパー市場や資産担保証券市場、インターバンク市場その他市場の流動性を回復するという我々に課せられた義務の履行に尽力した。我々は、納税者が1銭たりともコストを負担しないでもいいようにということで、この義務の達成後速やかに、流動性供給を目的とした大規模なファシリティーをすべて終了させた(想像してみてほしい。もはやその有用性が薄れたプログラムを速やかに終了させるような政府機関(government agency)のことを!)。我々は、マーケットや国民からの尊敬を勝ち得るために懸命に努力した。我々は、あちこちに不確実性が漂っているような状況において、努力して勝ち得たマーケットや国民からのこの尊敬を危険にさらすようなことがないよう心掛けるであろう。
([W]e at the Fed must continue to comport ourselves in a manner that exorcises any lingering worries about our willingness to brook any political interference with our commitment to fostering price stability and maximum sustainable employment. We delivered on our duty to restore liquidity to the commercial paper, asset-backed securities, interbank lending and other markets. We then closed out all of our extraordinary liquidity facilities, doing so without costing the taxpayer a dime (imagine that: a government agency that closes programs after they have outlived their usefulness!). We have worked hard to earn the respect of the marketplace and of the nation, and we dare not risk it at a time when there is so much uncertainty elsewhere.)

フィッシャーのこの発言をわかりやすく翻訳してみよう;

金融危機の最中における我々Fedのラディカルな行動は、結果としては成功を収めたものの、多くの恐るべき政治介入を招くことになった。再び議会においてポピュリストの怒りを煽るような危険をあえて冒すようなことはもうするまい。
(our earlier extraordinary actions, while successful, led to a good deal of threatened political interference, and we “dare not risk” raising the ire of populists in Congress again.)

 

もちろん、以上の議論はFedの無為無策(inaction)を正当化するものではないと私は考えている―独立性の擁護には必死でありながら実際にそれを行使する気がないとすれば、そもそもFedに独立性を付与することにどういった意味があるのだろうか?― 確かに、政治家は毎度毎度ばかげたことを語ろうとするものであり、ポピュリストは「Fedは大銀行とずぶずぶの関係にある」と語りたがるものではある。しかし、「政治介入」の脅威があるだけでもFedの政策を縛るに十分であるとすれば、そもそもFedは本当に「独立している」と言えるのだろうか?